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夕陽丘図書館と、口縄坂。

 大阪の天王寺界隈の話である。
 天王寺駅から動物園の柵に沿って谷町筋を北にのぼり、四天王寺さんの門前を通りすぎると、その先に夕陽丘がある。このあたりは上町台地といって、大阪平野の中でも珍しく高い台地になっている。大阪城のあたりから始まるらしいのだが、四天王寺のあるこのあたりが最も高い。聖徳太子がこの地に四天王寺を建立したのも、ここが西方浄土へと続く西の海に臨む高台だったからなのだろう。今は海も遠くなり、ビルが林立していにしえの眺望は望めないが。
 夕陽丘の地名は、ここからの夕陽の眺めが殊の外すばらしかったことに由来するという。

 かつてここに大阪市立夕陽丘図書館があった。

 高校時代、大阪市営地下鉄谷町線で通学していた私は、よく四天王寺前夕陽丘駅で降りて、夕陽丘図書館に通っていた。大阪の図書館といえば、中之島図書館が最も立派だから、それに比べると中規模といえよう。
 私が育った町の市立図書館は、小学校の隣のわずかばかりの土地に建っている小さな図書館で、それは図書館と呼ぶにはおこがましいような、せいぜい図書室がいいところだった。その程度の世界しか知らなかった私は、夕陽丘図書館の蔵書の多さに圧倒され興奮した。
 恋をしたといっても、いいかもしれない。

 高校からの帰り、夕陽丘駅で途中下車する。地下鉄のうす暗い構内に降り立っただけで、私の心臓は跳ねあがり鼓動を速めた。足早に駅の階段をあがる。出口の目の前が図書館だった。
 背の高い書架にずらりと本が並ぶ書物の森に迷い込む。そこは飽くなき好奇心が蠢く森だ。背表紙に描かれたタイトルはどれも魅惑的で、一冊、また一冊と抜き取ると、たちまち抱えきれないほどになる。

 はじめて付き合った彼との夏休みのデートも、夕陽丘図書館だった。
 自習室で宿題の数学を教えてもらった。

 図書館の隣に寺があった。
 このあたりは、かつて寺町と呼ばれただけあって、四天王寺を中心に驚くほどたくさんの寺院がある。四天王寺の支院で「愛染さん」の呼び名で知られる勝鬘院の寺域の東南角に、図書館があったという方が正しい。だから、もちろん北隣の寺も愛染さんの一部だった。境内にはいつも五色の幕が掛けられていて、どことなく賑々しく艶やかだった。

 そこから一区画北に進むと、谷町筋から西に向かって下る、かなり勾配のきつい細い石畳の坂道がある。
 この坂を、「口縄坂」という。

 「くちなわ」とは、蛇のことだ。坂の姿が蛇のように見えることから付いた名だという。
 だが、蛇の匍匐姿のように坂道が蛇行しているわけではない。どちらかというとまっすぐに近い。坂は上がるほどにきつくなり、途中から段差は低いけれども石畳の階段となって谷町筋にぶつかる。最後の一段まで階段が続いているのではなく、頂に至る直前にゆるやかな坂へと再び姿を変える。だからだろうか。その部分が蛇の頭のようで、上から見下ろしても、下から見上げても、なんとなく蛇が鎌首をもたげているように見えなくもない。このわずかな変化をもって、蛇に見立てた昔の人の感受性の豊かなこと。そして、「蛇坂」とは呼ばずに、「口縄坂」と名付けたことばの豊かさを思う。

 坂を登りきったところに、織田作之助の『木の都』の一節が刻まれた碑がある。織田作之助は、谷町筋をもう少し北に進んだ左手にある生玉神社の近くで育った。神社の境内には、マントを羽織って帽子を被った織田作の銅像がある。そこからは、彼の代表作の舞台となった法善寺横丁も近い。彼はこの界隈をよく書いた。

 天王寺七坂と呼ばれる坂がこのあたりに点在していて、口縄坂もその一つだ。天王寺七坂は、北から真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂の七つの坂道のことをいう。いちばん北の真言坂は生玉神社の参道で、ここだけが南北の坂だが、その他は東西にのびる坂だ。谷町筋が上町台地のへりに沿っている証左だろう。大阪の地名を冠している逢坂は、今は国道となって往時の姿をとどめていないのだが、あとの六つの坂はいずれも石畳の坂道で趣ある姿をとどめている。だからだろう、さまざまな小説によく描かれている。記憶が違っているかもしれないが、私も口縄坂のことは、司馬遼太郎のエッセイか何かで知って、図書館の帰りに足をのばして見に行ったのがはじめだ。 

 昔は坂の下あたりまで海が迫っていたという。海に沈む夕陽の残照に背を染めるくちなわは、さぞかし妖しく美しかったことだろう。


* * * * *

ご参考までに、天王寺七坂の写真を。いずれの写真も出典はWikipediaです。
天王寺七坂は南北2キロほどの区画に点在しています。

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(真言坂:写真出典Wikipedia 以下同じ)

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(源聖寺坂)

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(口縄坂)

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(愛染坂)

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(清水坂)

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(天神坂)

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(逢坂)


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