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【連載小説】「北風のリュート」第32話

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第32話:鏡原クライシス(2)
【6月10日 つくば・気象研究所
「鏡原を救うために、気象庁、厚労省、消防庁、防衛省、国土交通省の横断的対策本部の設置を内閣に進言してください」
 高塚は所長室のデスクで、朝から予算の数字に頭を悩ませていた。
 そこに乱暴にドアを開け、肩で息をしながら男が飛び込んできた。白衣を着ているから、研究官の一人だろう。
 高塚はパソコン画面から銀縁眼鏡を斜めにずらす。
 研究者には常識が欠落した輩も多い。そこを引き算しても、何を言っておるのか、この男は。
「まず、名乗るのが先じゃないかね」苛立ちをわざと声に込める。
「気候環境研、六研の天馬流斗です」
 天馬流斗、こいつか。先月、異常気象のサンプル採取を防衛省へ要請しろと無理を言ってきたのは。確かあれも鏡原だった。
「どういうことかね。緊急対策本部が設置されたと、今しがた報道があったばかりだ。なぜ別の対策本部を立ちあげる必要がある。双頭では迷走するだけだ。鏡原クライシスは、謎の呼吸困難患者の急増だ。厚労省と消防庁はわかる。災害出動という意味で防衛省にも納得がいく。だが、気象庁と国土交通省が対策本部に名を連ねる必要性があるのかね」
「鏡原クライシスが、気象による未曽有の災害だからです」
 高塚はマホガニーの机に肘をつき、こめかみを押さえる。生涯一研究者をめざした高塚にとって、この机はどうもしっくりこない。痩身で小柄な自分には貫禄もない。所長の肩書同様、不相応な重厚さが重荷だ。所長など押しつけられるから、こんな厄介ごとが持ち込まれる。
「本日発表された対策本部は、根本がまちがっています。あの、なんでしたっけ。やたらと長い名称の省庁。感染症危機管理庁?」
「内閣感染症危機管理統括庁だ」
「そう、それ」正解とばかりに高塚の眼前に指を突き出す。
 高塚はぴくっと頬を痙攣させ、反射的に顎を引く。
「感染症によるパンデミックを想定して創設された省庁、そこが主導権を握るんですよ。ウイルスの封じ込めしか頭にない。鏡原にロックダウンが発令されるでしょう。逆効果どころか、鏡原市民に死を宣告するに等しい」
 死の宣告だと、大袈裟な。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。高塚は椅子に体を預ける。
「見てください」
 天馬は脇に抱えていた資料を高塚のデスクに放り投げる。それだけでも眉をひそめたいが、勝手に高塚のパソコンにUSBを差し込むではないか。
「何をする」
 慌てて上体を起こし、キーボードを操作する手を掴もうとしたが、寸前でかわされる。天馬がモニターを高塚の方に向ける。
「現在、呼吸困難患者の激増は鏡原だけですが、Y県甲南市、N県長戸市でも救急搬送患者が増えています」
 日本地図に棒グラフが重なる。
「どちらも鏡原に隣接する地域ではありません。また、鏡原からの人流が多いわけでもない。一方、通勤を軸に日常的に往来がある名古屋では呼吸困難者の救急搬送は報告されていない。接触感染を危惧するなら、名古屋で患者が発生していないのはおかしい。また感染は都市部から広がることは先のパンデミックが立証しています。鏡原も含めた三市は人口十万人以下の地方都市。なぜ隣接もしていないこれらの都市で呼吸困難者が増えているのか。共通しているのは、内陸部にある比較的狭い盆地状の土地ということです」
「だから、どうした」
「鏡原クライシスの原因、それは『空の赤潮』です」


続く


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