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虚実皮膜論(きょじつひにくろん)

大学では国文学を専攻していた。
国文学の研究を志して、というような崇高なものではない。消去法でそうなっただけだ。文学部という漠然とした志望しかなかった私は、私大の出願時に専攻科まで決めなければいけない事実に慌てた。

おおむねは消去法で選択した国文科だが、最後に私の背中をひと押しした理由が一つある。
当時、添削指導のZ会を受講していたのだが、古文の課題に英草紙はなぶさぞうしの一節が出題されたことがあった。『英草紙』は都賀庭鐘つがていしょうが書いた江戸中期の読本(よみほん:「とくほん・どくほん」と訓読するものとは意味が異なる)で、読本はこの『英草紙』から始まったとされている。読本というのは、今でいう小説のことで、上田秋成や滝沢馬琴も『英草紙』に大いに影響を受けたという。

高校3年生の私は、出典の『英草紙』が江戸時代の作品であることに、単純に驚いた。古文といえば、平安時代か鎌倉時代、せいぜい下っても室町時代までのものだと根拠もなく思い込んでいたからだ。だから、その時はじめて、「江戸時代の古文」に出会ったと言っていい。「江戸時代の文章も、古文だった」という自明のことに気づいていなかった自分の迂闊さに舌打ちし、決して大げさではなく、目から鱗のような感慨を覚えたのだった。

「江戸時代の文学を勉強してみるのもおもしろいかもしれない」というのが、いい加減な理由で学科を決めようとしていた私の大義名分となった。

大学では、むろん江戸文学のゼミに所属した。教授が近松門左衛門の研究者だったので、必然的に近松について論文を書くことになった。

能、浄瑠璃、歌舞伎の古典芸能に共通していることだが、「時代物」「世話物」というジャンルがある。時代物というのは、史実を脚色した劇で、世話物は市井の義理人情もの、つまり恋のもつれみたいな話が多い。

近松は、現代では『曽根崎心中』を代表作に数えられるほど世話物のイメージが強いが、圧倒的に時代物の作品の方が多い。世話物が24作しかないのに比べ、時代物は90作を超える。江戸時代は総じて時代物の方が人気が高かったため、『曽根崎心中』ですら近代になるまで再演されることはなかった。だが、それでも近松の真骨頂は、世話物にあったと個人的には思っている。

世話物というのは、芸能週刊誌みたいな感じだ。一時期、一世を風靡した写真週刊誌が感覚的には近い。巷で心中事件が起きると、早ければその数か月後には、もう舞台で上演される。とにかく鮮度が命だった。いつの世も人はゴシップ好き。
「あの二人、なんで心中したんだ?」「何があったの?」「姑の嫁いびりがひどかったらしいぜ」「店の金に手をつけたんだとよ」

そんな人の噂好きの心理を逆手にとって、面白おかしく虚構するのが、世話物だった。ドラマチックに仕立てれば仕立てるほど、興行成績はあがる。

近松は、大阪の道頓堀にあった竹本座の座付き作者だった。道頓堀にはもう一つ豊竹座という浄瑠璃小屋があって、そこの座付き作者に紀海音きのかいおんがいた。二人はいわばライバル。

長らく近松の竹本座が興行成績では勝ち続けるのだが、近松の最後の世話物となった24作目だけ、紀海音に興行成績で負けを喫している。

私が論文のテーマとしたのは、この最後の世話物の心中宵庚申しんじゅうよいごうしん。紀海音が同じ心中事件を題材にして書いたのが『心中二つ腹帯』。
なぜ、近松が海音に負けたのか。

ざっくり言ってしまえば、ゴシップ誌と小説の差。わかりやすいエンタメと心理劇の差と言ってもいいだろう。紀海音は、大衆が求めるエンタメ要素に満ちた劇に仕立てた。一方、晩年を迎え円熟期に入っていた近松は、人間の心理の真実を描こうとした。そのためお金を払って娯楽を求める大衆には受けなかったということだ。近松は少し、時代を先取りしすぎていた。

そんな近松が述べたとされる芸術論が、虚実皮膜論きょじつひにくろん
芸の真実とは、虚(フィクション)と実(リアル)との間に横たわるあわいのような、透けて見えるほど薄い膜にひそんでいるのだとする。
写実だけではなく、虚構があることでより真実味が増すのだと。
穂積以貫の『難波土産』に近松の言葉として紹介されている芸術論だ。
「皮膜」をあえて「ひにく」と読ませているところにも洒脱がうかがえる。

近松自身、武家の出身でありながら浄瑠璃作家にならざるを得なかったわが身に思うところもあったのだろう。時代物、世話物あわせて生涯に100作以上を書いた近松だからこそ、たどり着いた境地ともいえる。


ああ、私も、そんな虚と実のあわいにひそむものを掬いとって書くことができるようになりたいものだと、今、切実に思う。


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