雪椿~金沢ひとり旅と15年古酒


もう、ずいぶん昔のことだ。
まだ20代だった私は、ふと、ひとり旅というものがしてみたくなった。

たぶん、「ひとり旅」という響きにあこがれていたのだと思う。
旅先はどこでもよかった。

有給休暇を1月の末に取る予定だったので、
冬が美しくて、ひとり旅の似あう土地がいいな、と思った。
ちょっとセンチメンタルな感じの旅。
別に悲しいことは何もなかったけれど。
雰囲気に酔ってみたいお年頃だった。

初めて勤めた会社の一年後輩に
金沢出身の美少女がいた。
ストレートロングの黒髪は、
眉の少し上で切りそろえられ、
切れ長の瞳には陰翳がやどっていた。
明るい性格だったけれど、
黙っていると、美しい容貌(かお)は憂いをまとう。
ああ、金沢美人ってこんな感じかな、といつも思っていた。

行き先を考えていて、彼女のことを思い出した。

知り合いが兼六園近くに
和風のペンションをオープンしたんです。
すごく素敵だから一緒に行きましょう、
と話していたのを思い出した。

私が転職してしまったから、
その話は宙に浮いたままだった。

あそこが、いいかもしれない。

さっそく彼女に電話した。
テルちゃんの知り合いの方がやってる
ペンションに泊まってみたいんだけど、
連絡先、教えてくれない?

わあ、泊まっていただけるんですか。
だったら、私から連絡しておきます。
きっと気に入っていただけると思います。

そう言って、紹介してくれたのが、
カメリア・イン「雪椿」という宿だった。

兼六園下という地名のとおり、
兼六園のすぐ下の閑静な一画にあって、
黒光りしている板塀と、
小屋根付の格子戸の門扉が
通りの清閑な空気に和していた。

ペンションという宿のタイプが
雑誌の「anan」などで
もてはやされるようになって、
まだ5、6年ほどのころだったから。
和風のペンションというのは、けっこう珍しかった。

外観と庭は和の佇まいだったが、
なかは洋風の造りだった。
趣味のよい調度類が引き算で配置されていて、
ソファに腰かけて眺める和風庭園とよくマッチしていた。

夕食は、ぜひ、金沢料理を食べてください。
オーナーがいろんな店を知っていると思うので、
相談するといいと思います。

彼女の提案もあって、朝食だけのプランで予約していた。

雪椿のオーナーに、
夕食には金沢の郷土料理を食べたいのですが、
お薦めのお店はありませんか?
と尋ねると、

日本酒は呑めますか?
と訊かれた。

そこそこ呑める、
と答えると。

地酒の種類が豊富で、料理もおいしい店があるので
予約を入れておきますよ。

そう言って紹介してくれた店は、
浅野川沿いにあったと記憶している。

金沢には、犀川と浅野川という
二本の川が街を抱くように流れている。
犀川は男川と呼ばれ、
浅野川は女川といわれるように、
太くまっすぐな流れの犀川に比べ、
浅野川は細くくねりながら
たおやかに流れる。
途中に「ひがし茶屋街」があることもあって、
しっとりとした趣がある。

店は、ひがし茶屋街から
少しはずれた所にあったと思う。
もう店名も覚えていない。
うっすらと埋火のように残っている記憶では、
白木の長いカウンターがあって、
私はそこに腰かけた。

地酒や吟醸酒がもてはやされる前、
でも、その兆しが現れはじめている、
ちょうどそんなころだった。
灘や伊丹、伏見といった
大手酒造メーカーが軒をつらねる
近畿に住んでいたこともあって、
それまで地酒にはあまり縁がなかった。

地酒のリストを見せられても
どれを頼めばいいのか、わからない。

金沢らしい料理が食べたいことと予算を伝えて、
料理も、お酒もおまかせでお願いした。

料理のことは何も覚えていない。
お酒は、いろいろ試して欲しいからと、
徳利ではなく、ワイングラスや玻璃の猪口で供された。

日本酒をグラスで、というのが
小粋でお洒落だった。

1杯目は、口当たりのいいものを。ということで、
石川県内の蔵元の吟醸酒だったように思う。
いや、大吟醸だったか?

食事も進んで、ほろ酔い気分になったころに、

ちょっと珍しい酒があるんですけど、試してみます?
と訊かれた。

食べたことのないもの、
飲んだことのないものは、
とりあえず試してみたい、
というほど食に対する好奇心の強い私は
即答で、

ぜひ。
と答えていた。

マティーニが似あいそうな脚の長いグラスが、
カウンター越しにすっと、目の前に置かれた。
琥珀色の液体が入っている。
まるでウィスキーのようだ。

日本酒といえば、透明に澄んだものと思っていた。
濁り酒にしても、乳白色だ。

この飴色の輝きは、何だろう。

怪訝な顔で眺める私に、
「15年古酒なんです」
という声がふってきた。

え? と瞠目した。
日本酒に古酒なんてあるんですか?

してやったり、
という顔がそこにあった。

日本酒もゆっくり寝かせると
こんな色になるんですよ。
まあ、吞んでみてください。

グラスを持ち上げると、
馥郁とした香りが漂ってきた。
口に含むと、ほのかに甘い。
ワインともちがう。
ウィスキーともちがう。
ワインよりも、ずっとさっぱりしていて
ウィスキーよりも、優しくやわらかだった。
こんな日本酒があるなんて。
そっとグラスを傾けるたびに、
幸せな気分に満たされた。

どうです?
期待のこもった目で問われた。

すでに心地よい酔いにつつまれ
心も足もとも、ふわりふわりとしかけていた私が、
果たしてその感動を十分に伝えることができたかどうか。

幻のような一杯に酔いしれたまま
夢見心地で店を出ると
粉雪が静かに舞っていた。
しんしんと冷える夜だったと思うのだが、
私の心はあたたかで、
籬の椿は雪化粧をしていた。

















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