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【連載小説】「北風のリュート」第38話
第38話:龍秘伝(3)
レイは光の文字の出現に慄いていた、すると。
《龍人の娘よ》
不意に澄んだ声がレイの脳を叩いた。
《何を問ふ》
眼前に魚がいた。
「今のは何?」レイは尋ねる。
《正しき継承によりて、秘伝よみがえりし》
「よみがえった?」
《秘されし文字顕現す》
「龍人以外が開けると、真っ白だということ?」
《然り》
「盗まれても、秘伝の内容は守られるということ?」
《然り》
「なぜ秘すの?」
《秘伝読むべし》
「あなたたちは、風の化身?」
《我らは風龍の眷属、風徒なり》
「口伝の『龍人風徒秘す』の風徒ね。龍人とは何?」
《龍人は風龍に乗る者なり》
「風龍に乗る? 風龍はどこにいるの?」
《北の最果ての谷》
最果て……レイは絶句する。
「そこには、どうやって」
《三密鳴らせば龍穴開く》
「三密って何?」
《龍秘伝、風琴、龍人なり》
「龍穴は?」
《風龍に至る扉なり》
「それはどこに?」
《龍の髭鳴るとき、道は開かれる》
「龍の髭って?」と問うと、
《鳴らぬであろう》と、風琴の中央の鳴らない弦をつつく。
「これは龍の髭?」
《髭の鳴る所、龍穴あり》
言い終えると、魚は透明の肢体を反転させる。
「母さん!」
邦和の切羽詰まった声でレイは我に返る。先ほどの魚が、曾祖母の琴乃の頭上を回遊し額に口づける。レイは左の枕辺ににじり寄る。右では邦和が琴乃の手を両手で挟み、祈るように自らの額に押し当てている。
「おばあちゃま」
皺で埋もれる瞼が、薄く開けられる。左手の指先が、わずかに上がった。レイはその手を両手で包む。
「さいごに……」
空気が微かに揺らぐほどの音にならない囁きだった。
レイは体を斜めに傾けて琴乃の口もとに耳を寄せる。
「聴けて、よかった……」
よわよわと風琴を指さす。
「……魚が、導いて、くれ、る」
握っていた琴乃の手から力が抜け意思を失った。
「おばあちゃま!」
レイは声を張りあげ、曾祖母の手をきつく握る。
ゆらり、と空気が震え、琴乃に寄り添っていた魚も煙のように消えた。
あ、とレイは音のない声を落とす。
半開きの琴乃の口が、微かにほほ笑んだように見えた。
「母さん」
くっと短く喉を鳴らし、邦和は引き攣った嗚咽をもらす。
母はレイの背を撫で「おばあ様、安らかに」とつぶやくと、琴乃の瞼をそっと指で降ろし、口の端の涎をハンカチでぬぐい唇を合わせる。
「叔父様、主治医に連絡を。それとも夫を呼びましょうか?」
看護師としてするべきことをしながら、母の頬に涙が筋をなす。レイはまだ温もりのある琴乃の掌を頬にあてる。「魚が導いてくれる」曾祖母の囁きが、潮騒のごとくレイの鼓膜を揺らしてやまなかった。
龍秘伝が見つかったと、一刻も早く流斗と迅に知らせたかった。
けれど、どの順で報告すればいいのか。画面に入力しては消しを繰り返していると、スマホが鳴った。流斗からだ。画面をスワイプさせる。
『レインボー』
流斗の明るい声が響く。胸がきゅっと縮む。
『空の赤潮対策本部の設置が決まった。連絡が付きにくくなるかもしれないけど、一日に一度は必ず報告するからね。じゃ』
言い終えると切ろうとするので、レイは声を張りあげた。
「あの、龍秘伝が、龍秘伝が見つかったの」
『え、ほんとに』
一瞬、画面が沈黙する。
『すごい。どうやって、どこにあったの。タッチーとも情報を共有したいからビデオトークに切り替えよう』
昂奮が伝わる弾丸トークにレイが口を挟めるわけがない。
いったん画面は切られ暗くなったが、すぐにコール音が鳴った。
『龍秘伝が見つかったんだって』
迅は風呂上りなのかタオルを首にかけ、画面にかぶりつく勢いで訊く。
レイは龍秘伝を目の前に掲げてみせ、龍源神社の宝物庫で見つかったいきさつや、風琴を弾くと光がほとばしった不思議について、話を行きつ戻りつさせながら語った。曾祖母の大往生を告げると、流斗が『えっ、あのおばあさんが亡くなったの?』と声を落とした。前に北堂家を訪問したときは流斗も一緒だった。
『つまり』と流斗が話を整理する。『風龍は北の最果ての谷にいて、龍穴を通ればそこに行けるってことか。光る龍秘伝を見たいなあ。明日から対策本部に缶詰めじゃなきゃ』
流斗がわしゃわしゃと頭を掻きむしっている。
『いよいよですね』迅が、挑むような目をする。
戦闘機パイロットの目だと思った。ふだんは恥ずかしくて直視することはないが、画面越しならじっと見ても気づかれない。
『レインボーに負けてらんないよ』
流斗もにやりとする。
明日、空の赤潮対策本部が始動する。すでにあるものを覆して、新たに対策本部を立ち上げることがいかに困難か、レイでも想像できる。現行の対策本部は錚々たるメンツだった。彼らのプライドが公開処刑されるようなもの。どんな手を使ったのだろう。画面の向こうで迅とはしゃぐ流斗に、鋭さなんてかけらもないのに。不思議な人だと思う。
『レインボーは、龍穴を探すの?』
「まず龍秘伝を解読します。漢字ばかりで意味がわからないの。龍穴はそれからです」
『龍穴探し、任務のない日なら手伝うよ』
迅はいつでも、わかりやすく優しい。
『そうだよ。イーグルでも飛ばしてもらったら?』
流斗が冗談か本気か判断のつかない軽口をたたく。
彼らに少しは近づけただろうか。レイは銀に輝く龍秘伝を撫でる。
ビデオトークを切ったとたん、流斗のスマホが鳴った。
鏡原基地の池上副司令からだ。
「天馬です」
『空の魚のことはどうする?』
ざらつくダミ声が耳裏に反響する。
「できる限り、伏せておくつもりです」
『理由は?』
「理由は二つ。一つは、小羽田レイを好奇の目から守るため。群集心理は気象予測よりも難しい。もう一つは、太古の昔から、龍人の存在は入念に秘せられてきた。それに何か意味があるように思えます。もちろん大いなる力に期待はしたい。でも、この異常気象は人が招いた人災です。できる限り人の手で解決したいんです」
『承知した。では、明日、霞が関のエリートどもに殴り込みをしようじゃないか。立原は連れて行くか?』
「老獪な将軍がいれば十分ですよ」
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