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【連載小説】「北風のリュート」第27話

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第27話:散らばる異変(3)
【6月2日 鏡原/名古屋】
 ボーダーコリーのボッシュが死んだ翌日、日曜の朝というのにインターフォンが鳴った。空は泣いているように曇っていた。
 明日、荼毘に付すボッシュはドライアイスを詰めて、レイの部屋に安置していた。
「レイちゃん、天馬さんがつくばから来てくださったのよ」
 母がノックをしながら告げたように思う。レイは昨日から現実をシャットダウンさせたままだ。気づくと、流斗がボッシュの棺に手を合わせていた。
「N大の徳山から気になる画像が送られてきたんだ」
 これを見て、と流斗がスマホ画面を目の前にかざしてくる。
 微生物が三つ並んでいる。これがどうしたというの。
「ということで、今から徳山のところに行くよ」と流斗がレイの手をぐいと引く。レイは抵抗もしなかった。階段をどう下りたのかも覚えがない。
 上がり框に父と母が立っていた。
「レイちゃん、大丈夫?」心配する母の肩に父が手を置いている。
 流斗はスニーカーの靴紐を結びながら、「できるだけ酸素ボンベや酸素缶を確保しておいてください」と父に告げていた。また、訳のわからないことを言っている。
 レイはその光景を自らの頭上から、第三者の目で眺めていた。
 あそこにいるのは自分だろうか。これは夢? 
 きっとボッシュが亡くなった夢を見ているだけよ。 
 
 電車に乗ったのも覚えていない。
 意識は靄のなかにあり、頭が重く息苦しかった。二人掛けシートの窓枠に頬を預け目をつぶる。列車の振動が責めたてるように頭に響く。やがてトンネルに入り、闇に引き込まれた。
 気づくと明るい空の下に立っていた。まぶしい陽光のなか、悠々と泳ぐ魚が頬を撫でていく。街路樹の緑と葉陰をすり抜けて届く陽射しが、歩道にプロジェクションマッピングを描いている。光がちらちらと戯れる。
 去年の今ごろは、鏡原もこんな空だった。
 あったはずの世界。今は手の届かない世界。
 夢の中を歩いているのだろうか。
 足もとにアスファルトはあるが、それを踏みしめている感覚がない。
 ボッシュが死んで丸一日、レイは夢と現実の区別がまだらで、時計は昨日の朝から止まっている。いったん堰を切った涙は自制が利かず、風が揺れただけでも瞳がにじむ。
 欅並木を抜け、理学部B棟の表示がある建物を三階まで上がる。手は痛いくらいしっかりと流斗に握られていて、その痛みだけが現実との接点だ。大きなガラス窓から降りそそぐ初夏の陽が踊り場で跳ねていた。
 研究室はあいかわらず乱雑だが、実験台の上はきれいに片付いていた。
 髪を首筋で一つに束ね丸眼鏡をかけた白衣の徳山の姿を認めて、レイは今どこにいるのかをようやく認識した。
「やあ、待ってたよ」
 流斗に指示された条件で実験をして驚いた、と徳山はまくしたてる。
 風蟲ワームを入れた試験管の温度を上昇させ富栄養状態にすると、透明な風蟲が赤く変異した。徳山がパソコンのモニターに画像を次々にアップする。流斗が食い入るように見つめる。風船のように膨らみ赤色化していく画像に、レイも霞む目を瞠った。
「よし、これで赤い微生物は風蟲の変異体だと証明できる」
 流斗がにんまりしている。
「それだけじゃないぞ」徳山がプリンターから出力した紙を流斗に手渡す。
「分析に回していた結果が出た。赤い風蟲には毒性がある。人体に影響のない毒だが」
「毒か」と流斗が、やはりという顔で解析結果を仔細にチェックする。
「毒?」
 聞き取れないほどの声でレイはつぶやき、視線を宙に漂わせる。
 空の魚たちは赤い風蟲の毒で数を減らしているの?
 ボッシュもその毒にやられたの?
 疑問がレイの脳を掻きまわす。
 


続く


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