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【連載小説】「北風のリュート」第34話

前話

第34話:鏡原クライシス(4)
風蟲ワームは空の魚の餌です」
 高塚は椅子の背にもたれ目を閉じる。こんな戯言に構っている暇はない。予算書が溜まっているのだ。
「その変異体である赤毒風蟲せきどくワームは、誘引物質を出し引き付けるため、魚は毒が蓄積し死に至る。鏡原の空の魚は絶滅の危機に瀕しています」
「空のどこに魚がいる?」
 天馬を黙らせるつもりだった。
「透明なため我々には見えません。風の化身と考えています」
 風が魚の姿をしているだと? まだ懲りないか。
「風という漢字の中には虫がいます。風は、虫すなわち風蟲を捕食することを昔の人は知っていた。見えていたのかもしれません」
 持病の偏頭痛が酷くなりそうだ。
「空を泳ぐ魚がいると仮説を立てるのはいい。それが風蟲を捕食していると、どうやって立証する?」
「N大で実験したものですが」と天馬が別の動画を開く。
 シャーレで蠢く赤い微生物が、蓋を開けると一瞬にして消えた。
「これは……」高塚はがばっと椅子から身を起こす。
「空の魚が食べた、と?」
 にわかには信じがたい、だが。これは実験映像で手品のたぐいではない。 
 天馬が、ほらね、と誇らしげなのが忌々しいが。
「空の魚がいることは確かで、彼らの存在抜きにして、鏡原クライシスは説明ができません」
 天馬は昨年秋の強風の頻発から滔々と説明を始めた。
 気温上昇により風蟲が爆発的に増え、餌の急増に空の魚も乱舞し、強風や竜巻を引き起こした。風蟲は巨大化し毒化する。増殖と捕食のいずれが速いかの競争だ。空の魚は貪るように赤毒風蟲を食べ中毒に陥った。それが風蟲の戦略でしょう。彼らは生存競争のことわりに従っているにすぎない。原因を作ったのは人による温暖化です。鏡原クライシスは自然が我々に下した鉄槌といえます。
「すべての辻褄が合うんです。原因と結果がきれいに一致します」
 天馬はデスクに両手をつき迫ってくる。
 高塚は椅子をくるりと半回転させ、立ちあがって窓の外を見る。
 大気圏は等しく地球を包んでいながら、地形や地上の微妙な変化に左右され表情を一変させる。美しい空が、牙を剥き豹変することを高塚はよく知っている。
「空の赤潮説をもって、霞が関を動かせというのか」
 後ろ手を組んだまま、天馬にひたと視点を据える。
「ご明察です。それも一刻の猶予もなく」
 めまいと同時に、微量の昂奮を覚える。
「鏡原を救うには、赤い瘡蓋を取り除き、酸欠状態を解消する。これしかありません」
 明言するなり、天馬は駆逐の具体的な方法についての腹案を唾を散らして語る。もはや高塚に口を挟む余地も異論もなかった。
 そのための気象庁、厚労省、消防庁、防衛省、国土交通省か。
 これを一人で練ったのか。
 気づくと日は傾き、長い裾を部屋の隅に伸ばしていた。
「所長、逆さ虹です。環天頂かんてんちょうアークが」
 天馬が空を指さし昂る。
 淡く透ける薄暮の空の高い位置に、円の底をなぞるように虹が逆さの弧を描いている。太陽が見せる光の魔法のなかでも、環水平アークと並んでひときわ美しい。雲の中にひそむ六角板上の氷晶がプリズムとなって見せてくれる奇跡の光景。
「幸先がいいですね」
 天馬が窓辺に立つ。西日を受け微笑む横顔には気が漲っている。
 私にも確かこんな時があった。気象で世界を救う――そんな青くさい信念が胸のうちで燃えていた時が。
 研究を諦め所長の椅子に座ることに意義があるとすれば、「空の赤潮」説をもって霞が関を揺さぶり、このまなざしの礎となることなのだろうか。
 
 
 鏡原基地の副司令室で空を睨む池上のスマホが鳴った。
 天馬流斗を表示している。「あの生意気な気象研究官か」
「池上だが」声帯のすり減った声を響かす。
『池上副司令にぜひとも助力を仰ぎたい』
 名乗りもせずに本題を切り出す。あいかわらず不遜な奴だ。
「なんだ」
 咥えていた煙草をひねり消す。こいつと話すと煙草の本数が増える。
 気象庁、防衛省、厚労省、消防庁、国土交通省による『空の赤潮対策本部』設置の必要性を訴える天馬の話を、池上は無言で聞いた。
「わかった。防衛省から内閣官房に出向しとる榊原は俺の同期だ。そっちから手を回そう。まさか貴様、それも計算ずくでの依頼か」
 池上はハイライトの空箱を握りつぶした。

続く


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