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キャリアの棚卸し《23歳-24歳/内定〜1年目》

今回は大学を卒業し、人材会社に内定をもらい入社してから退職するまでの流れを書きます。前回のnoteはこちらから。

総合商社、証券会社に落ち何とか
掴み取った人材会社の内定

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学習院大学、体育会、世界一周、これだけの武器があれば就活でも間違いなく戦えると思っていた当時の自分をぶん殴ってやりたいと心の底から思う。肩書きや経歴で内定がもらえる程、就活は甘くない。特に誰もが行きたがるような総合商社や大手証券会社なら尚更だ。心のどこかで総合総社は無理でも採用人数の多い大手証券会社なら部活の同期も内定をもらっていたし受かるだろうと思っていた。ただ、現実はそんなに甘くなかった。体育会で苦しみながら耐え抜いたエピソードを武器に面接の駒を進めることは出来たが、最終面接、三次面接で蹴散らされ、全く内定をもらうことが出来なかった。当時の就活の軸は

1.誰もが知っている企業であること

2.平均年収の高い業界であること

3.海外で働くことがチャンスがあること

で、これを最も満たしくれるのが総合商社だった。ただ、総合商社を目指す人は東大・旧帝大・早慶が当たり前の世界。OB訪問をさせてもらった総合商社勤務の慶應経済出身で会社の採用HPに載っている人に言われた「君の大学で仮に総合商社に入れたとしても絶対に出世できないよ。」というこのセリフを一生忘れないだろう。学習院大学では奇跡的に三井物産に内定をもらった人がいた。彼はきっと自尊心と満足感で一杯なのだろうが、将来の出世競争で学歴が周りよりも低いという理由で出世コースから外れるのはあまりにも切ない。残酷だがこれが就活で人気のある業界の実態。

学歴フィルターは確実に存在する。総合商社出身で日東駒専以下の人を一度も見たことない。残念ながらそれが現実。学歴がない人こそ周りの環境や何かのせいにして生きてきた人が多い印象を持つ。楽して難関大学に入る方法なんてないのにそれがあたかもあるように平然と語る。学歴は努力を表す立派な勲章だし、受験よりもフェアな戦いを僕は知らない。

それに学歴が全てじゃないことは分かっているが難関大学の生徒とそれ以外の生徒では圧倒的に思考の深さが違う。企業もそれを理解して学歴の高い学生を採用しているのだろう。

そんな中で僕は悉く面接に落ちた。落ちた社数で言えばゆうに30社を超える。どこかから内定をもらえるだろうという安直な考え方は身を滅ぼす。就活生はそんな甘ったるい考え方を捨て、どうすれば内定をもらえるかを血が吹き出る程考えて欲しい。頭を使って考えた経験は今後の人生にきっと生きてくる。

面接に落ちまくった僕はたまたま校内で募集のあった、名前を言えば就活生なら誰でも知っている人材会社を受けることにした。この時、4年生の8月頃で内定0。意識だけ高く就活に取り組んでいたが全く内定を獲得できなかった。そんな中で、ソルジャー営業マンを多数採用決めている前職の採用担当の方と意気投合し、順調に面接を突破し内定をもらった。4年生の9月中旬に僕は前職の内定をもらって就活を終えた。正直言って就活は本当に辛かった。自分ならもっと良い会社に受かると思っていたし、もっと選択肢があると思い込んでいた。ただ、現実はそんなに甘くなかった。

自分と同じような想いをする人を1人でも減らしたい、同じような失敗をして欲しくないという想いからOB訪問を引き受けるアプリを通じてこれまでに100人以上の就活生の相談に乗ってきた。自分の話が就活生の人生を変えるほどインパクトがあると思ってはないが、どんな人でも受け入れ、アドバイスしてきた自信はある。

人材会社での内定者研修

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何とかもぎ取った人材会社での内定者研修はテレアポのロールプレー、採用担当の悩みのコンサルティング、営業メール作成と本当に退屈だった。ただ、これはどれも基礎中の基礎で怠ったところで良いことは一つも起こらない・あまりにも適当に受けていたため、補修を受けさせる始末。そして研修担当にはできない新卒の烙印を押された。今考えれば当たり前だが、これは配属先を決める大切なファクターだった。研修で良い評価を受けていない人は当然ながら自分が希望する部署に配属されることはない。その結果1番生きたくなかったアルバイト・非正規雇用の求人広告の部署に入社式の際に配属を発表された。今思えばあの研修をしっかりとやっていればよかった。ただ、この部署に配属されていなかったら会えなかった人がいるのでそれを考えると置かれた場所で花を咲かせる力が大切なのかもしれない。

部署を代表してスピーチするほど意識だけは高い新卒

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※会社の寮の仲間と一緒にスピーチをすることで仲良くなったイツメン。
家から通える距離にあったけどより多くの機会を求め、会社の寮に住んでいました。

大学を普通の人よりも一年遅く卒業し、体育会だったにも関わらず自分が全く志望する会社で働くことが出来なかった当時の僕はかなりの野心家だった。絶対に表彰される人材になると意気込んでおり、内定者研修の時とは比にならないほど真面目に研修に取り組んだ。何か質問や気になることがあれば誰よりも先に挙手をし発言していた。周りの同期の目なんか何も気にならなかった。ただ、自分が成長することだけにフォーカスしていた。その姿勢を研修担当の方々に認められ、部署を代表してスピーチする機会をもらった。その時に一緒にスピーチした女の子は見事に表彰されたが僕は表彰とはかけ離れた成績で一年目を終えた。スピーチに関しても事業部長や営業部長といったお偉いさんを前にテンパり話すべきフレーズが全部吹っ飛んだことを今でも忘れない。あれほど屈辱的だったことはなかった。それからみんなの前でプレゼンする度に緊張するというよくない癖が出来てしまったが、何度もバッターボックスに立ったことで少しは克服することが出来た。

初日から頭がおかしい扱いをされる新人

スピーチが終わり、配属初日に女性の営業部長との間にトラブルが起こる。会社用のパソコンが盗まれないようにするために、鍵がかけられており、それを開けるカギがスペアキーを含め新人には渡される。そのスペアキーを各課長に預けるのだが、そのカギにマークをするために付箋に名前を書いて貼るのだが、僕は付箋を持っていなかった。そこで「〇〇さん、付箋持っていますか?」と女性の営業部長に聞いた。当然のごとく、その営業部長は「持っていない」と一蹴。当時の僕はこの一連の出来事に何も違和感を感じていなかったが、後になってこの一連の出来事を当時の課長をはじめとする方々から「ふせんを持ってるか聞くなんて失礼すぎる!」「新人としての自覚が足りない」などとかなり叩かれた。今となっては自分の至らなさを受け止めることができるが当時の自分には受け入れることが出来なかった。

毎年開催される名刺獲得大会という謎イベント

営業職として現場に配属されてから毎年恒例の名刺獲得大会が開催された。名前の通り、1日外に出て営業をし、1枚でも多く名刺を獲得した者が勝利というシンプルなルール。担当が渋谷区だったこともあり、109をはじめとしたモールを狙えばいけると思っていたが名刺交換をしているところ警備員に声をかけられ、営業禁止令を受ける。その後も何軒か飛び込み名刺交換をしてもらえるように頼み込むも効率が悪く名刺が全く集まらない。結局集まりきることができず、順位も何位かわからないで終了。70人いた同期のうち2人はその名刺獲得大会で初受注を決めていた。

70人いる同期の中から3番目の初受注に到るまで

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恒例の名刺獲得大会が終了すると現場に配属される。新卒営業の初仕事は新規クライアントの獲得。新規クライアントを獲得する方法は電話してひたすらアプローチするのみ。非正規雇用における求人広告を扱っていたので電話をかけるところは個人経営の飲食店や中小企業、ベンチャー企業がメインだった。同期が1日100件テレアポする中でその倍である200件をこなしていた。不動産投資の営業だと1日に300件かけるところもあるらしいからまだ緩かったのかもしれない。だが、200件電話したとしてもアポイントを取れるのはせいぜい2件。当時誰よりもテレアポが苦手なこともあってアポが全く取れなかった。ただ、誰よりも数をこなしアポイントを獲得することに集中した。配属され3日目に「明日15時に来て。」と中華料理店の店長に言われ先輩と一緒に同行し、次の日に向かった。到着すると60歳超えのおじいちゃんが対応してくれた。初めての商談で何を話せばいいのか全く分からなかった僕は先輩の話をただひたすら聞いていた。先輩の話がある程度進んでから「そしたらこのプランでお願いします」の一言が。同期で3番目に初受注が決まった瞬間だった。契約書を書く手が震えて先輩に引っ張ったかれたのが懐かしい。自分の努力が報われた瞬間ではあったが何も出来なかった自分に虚無感を感じた瞬間でもあった。ただ、一件の受注で140%の達成率を叩き出すことが出来たのはラッキーだった。翌月もラッキーパンチが炸裂し、1週目でノルマを達成。その翌月も100%で達成した。ただ、表彰を受けるには100%の達成率じゃ全く足りない。表彰式の期間までやりきったが表彰には全く届かず一年目の秋を終えた。秋になってからは1人で商談にも行けるようになり1人で受注できるようになっていた。ただ、ノルマは以前に比べるとどんどん上がり、引き継ぎもあったがノルマを達成するだけで精一杯の日々だった。

課のメンバーで達成した全国達成率1位と虚無感

ノルマを達成することに余裕のなくなり表彰どころか売れない落ちこぼれ社員になりかけていた頃に課のメンバー(自分含め4人)の調子がやけによく周りのみんなが140%達成していた。そんな中自分は100%達成することで精一杯。完全に自分の力不足を恨んだ。ただ、チームに貢献するべく新規の開拓には誰よりも力を入れ平均受注単価の5倍近くの額を一回で受注することで何とか100%を達成した。周りのメンバーに恵まれ、2ヶ月に渡り全国の課で達成率1位となった。全国1位はとても喜ばしいことだけど自分自身の力不足を改めて痛感するきっかけとなった。ただ、1位になった祝いでみんなと一緒に食べに行ったUSHIGORO Sはこれまでの人生で食べたどの肉よりも美味しかった。あの時に課のメンバーで写真を撮らなかったことを今でも後悔している。あの時のメンバー程恵まれた環境はなかった。

まだまだ記載したいことがあるのですが、今回はここまでにして次回に1年目の下半期についてnoteをまた書きます。それではまた。

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