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無益であると思いながら、家族に「心臓マッサージを希望しますか?」って聞くのはなぜですか?

高齢社会、2025年問題間近で病院には患者が溢れています。
脳梗塞やパーキンソン、認知症で廃用して、施設で寝たきり。このような患者はどこの施設でも多いことでしょう。
このような方が肺炎や尿路感染で急性期病院に来たら…
上級医が「DNARとっとけよ!」と言う場面をよく目にします。「DNAR取れました!」と嬉しそうに、達成感を持って上司に報告する若手もよく目にします。

DNARは医療従事者にとって最強のアイテム(免罪符)かのように扱われ、これが取得されると一安心みたいなムードはどこの病院でもあるのではないでしょうか?
本来DNARが取れても、心停止時の対応以外の治療に変化はないはずですが…

では逆に、上記の患者でDNARが取れなかったらどうしていますか?
蘇生できる見込みもないと分かっていながら、不十分な胸骨圧迫を形式上行い、こんなものかな?というところで、ご家族に「やるだけやりました」と言っていませんか?
果たしてこれは、誰のための行為なのでしょうか?
我々が訴えられないため?

蘇生行為は本来、蘇生の見込みがある患者に、心拍再開までの時間、脳血流を保つために行うものです。見込みがあるからこそ、過大侵襲が許されるのであって、見込みがないのにやってはいけません。
心肺停止には必ず原因があるため、解除できる原因がない時は蘇生の適応にはなりません。
老化や慢性心不全の進行、敗血症の進行等はACLSを行ってもその原因解除はできませんよね?
極端な話をすると、首が取れた外傷患者が搬送されても蘇生を行わないと思います。末期病態の進行も原因の解除が不可能という点でこれと同様ではないでしょうか?
つまりこれらを生理学的無益な状態として蘇生適応のないものとして判断します。
逆に見込みがある、もしくは病態が可逆性で一時的にサポートすれば救命できるという状況なら希望があるならECMOでもなんでもするべきでしょう。
高齢者でも、廃用していても、病態によっては蘇生の見込みがあるかもしれません。そんな時も「この人はDNARだから…」と、今の病態とは関係なく取得されたDNARが適応されてしまうことがあればとても怖いことです。

家族に心臓マッサージは希望しますか?というのは実はものすごく酷な質問です。心臓マッサージをするかどうかが話の争点になっている事が、一番の問題だと思います。
本来論点は、「本人の1番のゴール(苦しくないようにとか、家族との時間をできるだけ長く過ごせるように等)はなんですか?」「本人だったらどうして欲しいと思うか?」「家族は患者にどうしてあげたいか?」ということが論点でないといけないはずです。

蘇生の見込みがあるかどうかは、生理学的な蘇生の見込み、患者の予後などを総合的に判断する高度な経験と知識を要するため、家族のみで結論を出すのは現実的に不可能です。
そして、それを理解できてもその決断を下すことで、家族が背負う罪悪感も大きくなってしまいます。決めきれない、もしくは決めた後に苦しむ方も多くいらっしゃいます。
蘇生の見込みがないと説明しても、家族が心臓マッサージや挿管を希望するのは、家族の理解が悪いわけでなく、自分の判断で家族の命が決まるという重荷が原因の一つです。

我々医療従事者は、患者本人の推測意思や家族のゴールを確認し、これに基づいて最適な治療、そして心臓マッサージするべきかどうかをこちらから提案すべきだと思います。
この際、医療従事者には自分が決断を下したことによる責任が生じます。それで本当に良かったのか悩むこともあるかもしれません。でも、その分家族の負担をプロとして背負い、軽減してあげたことにはならないでしょうか?
患者が元気になって帰った時だけが医療従事者の満足ではないと思います。
手を下せば、命を一定時間長引かせることはできる状況でも、本人の意思や家族のゴールを優先して、これを達成できたなら、たとえ患者が亡くなったとしても私たちは「出来ることはやった」と言ってもいいのでないでしょうか?

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