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私がやった

ちょっとタイトルが重たいです。

川崎市老人施設転落死事件について、先日投稿しました。

 
 あれから進展があり、今日の新聞に関連記事が載っていました。今日のは大きな記事でした。
 死刑が確定した施設の元職員が、事件の取材と手紙のやりとりを続けてきたノンフィクションライター宛てに、「私がやった」と告白する手紙を送ったことがわかったそうです。
 状況が変わりましたので、私も改めて投稿しないといけないと思いました。


 うーん、やっぱりそうなんか。

  手紙には、それが間違いないこと。その動機について、業務量が減ってほしかったこと、自分の救急技術を見せつけたかったこと。
 また、うその主張を続けることに悩み、自分の気持ちが「限界」だったこと。転落させたことは「ただただ申し訳なく思っており」「この刑を受け入れたい」と思っていることが書かれていたそうです。

 5月16日の記事では、上告を取り下げた理由は、「疲れたから」とありました。今回、「気持ちが限界だった」とあり、その言葉には重みがあると思いました。それこそ限界だったのでしょう。

 告白できたことは良かった。

 
 ノンフィクションライターの高木さんは、1年3ヵ月ほど前から手紙のやりとりと面会を重ねてきたとのことです。その高木さんは、手紙に被害者やご遺族への謝罪の言葉がほとんどなかったこと、そして彼が「まだ事件に100%向き合えているわけではないのではないか」と言っておられます。

 これ、何となくうなずけます。犯行の動機について、一つ目の「業務量が減ってほしかった」というのは理解できますが、もう一つがよくわからない。

 刑が確定してしまったら、事件に、そして自分の気持ちに向き合う機会はあるのでしょうか。そして今回、この気持ちを告白した相手が、ノンフィクションライターだったということにも驚きました。そういう人がいなかったら、どうなるのだろう。


 そう思いながらネットを見ていたら、「時事通信ニュース」2023年6月8日の記事を見つけました。
「『なぜ』問い続けた被害者=本音聞けず、死刑執行で区切り、秋葉原無差別事件15年」

 あの日、重傷を負った元タクシー運転手。一度謝罪の手紙が届いたが、「なぜ事件を起こしたのか知りたい」との一心から元死刑囚に手紙を7通送った。しかし結局本音は聞けないまま、刑が執行されたという記事でした。

 そっか。そんなに簡単なものではないのですね。難しい。

 先日書いた「孤独jと孤立」の問題にも関わって来ると思いました。
そして、先ほどの秋葉原の被害者の方の、「疎外感から事件を起こしたと考える一方、人間性はみんな違う。だから本音を聞きたかった」との言葉も心に留めたいと思いました。ひとまとめにはできないと。


 最後に今日私が思ったこと。少し話がそれます。

 詳しいことを知らないまま、新聞記事を読んだだけの感想をこうしてSNSに上げることについてです。それは、偏ったものになる危険性があると思います。今回もそれを感じました。誰かを傷つけるかもしれない。気をつけないといけないと心を引き締めています。

 またnoteにふさわしいのかとも考えています。noteは作品発表の場なので。エッセイなのか、評論なのか。(そんな分野あるかしら)自分の意見がどうしても入ります。書きたいのはそれなので。それが作品としてどうなのか。

 でも、一方で、新聞記事を読んでの感想は続けていきたいのです。新聞が好きで、感じたことは残していきたいからです。投稿していいかどうかは今までに増してよく考えていきます。

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