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なぜ日記を書くのか

この日のbeは、他にも興味深い記事がありました。

朝日新聞 10月21日(土)別刷り be

be report 「日記」


「日記って何のためにあるんだろう?」という思いから取材されています。

日記とSNSは厳密に言うと違うと思うのですが、記事の中に「SNS」が出てくるし、noteの中にも「日記」はあるので、同列として考えます。


前半部分は、戦時中など、歴史を知る史料としての日記を取り上げています。例えば、戦場で書き記した日記には、軍事下ではタブー視されるような心情が書かれていたり、あとで家族が読むことを想定して書かれた日記もあるとのことです。

私が注目したのは、その後です。
「そもそも日記とは、誰かに読まれることを前提に書くものなのか」


記事には、日記を4つに分類しているので、紹介してみたいと思います。

「他者の視線」をどこまで前提としているかで日記は変わる

①残したい自分、守りたい自分(鍵付きの日記帳やSNS、日記アプリなど)
 → 書くことで考えや感情を整理する。自己同一性、自分らしさの確認

②見られてもいい自分(家族や友人が見る日記、SNS、交換日記など)
 → 日常を気楽に記録し、知らせたい。興味のある話題を共有したい

③見せたい自分(公開されたSNS、動画、ブログなど)
 → 仕事や活動をPRしたい、収入につなげたい、注目を集めてチャンスをつかみたい

④見せなければならない自分(業務日誌など)

                         (記事より要約)

ね、面白くないですか。はあ、なるほどね、と思いました。


自分の場合

 さて、自分のことを考えてみたいと思います。


 私はnoteに発信するのが今、とても楽しいです。(受信も楽しいですが)日頃の出来事や、あちこち出かけ、本や新聞を読み、映画を見たりして感じたことを上げています。

書くことで、考えたことや感情を整理することができて、そしてそれを記録することができて嬉しいです。

 ほら、それは、レベル①「残したい自分」ですよね。ここまでで、もう目的は達成しているようなものです。

そこでおさまっていればいいんですけど、それで満足することもあるのですが、レベル②「見せてもいい自分」を越えて、一気にレベル③まで行くわけです。「見せたい自分」です。
「見てもらいたい」「読んでもらいたい」

なんなんでしょうね、この欲求。そして読んでもらったらやっぱり嬉しい。「ありがとうございます!」と頭を下げています。

でも、読んでもらうとしたら、「長くなるし、わかりにくくなるからここは要らない」とか、「差し障りがあるから書いちゃいけない」とかあるわけです。でも、思ったことはせっかくだから残したい。せめぎ合いです。

自分だけの日記にしか書けないことはあります。それはどこにも書いていないのです。それが大事かも。

記事に戻ります。


「なぜ日記を書くのか」

明治学院大学の田中さんは「書きたい欲求があるから書く、と言えばそれまでなのですが」と前置きして、

文章に限らず、たとえば毎日同じ献立の夕食を作って写真に撮り、根気強くSNSに投稿すれば、そこにブレない自分、自己同一性が立ち現れる。今日も自分らしく生きたと確認する。日記が自己の存在証明となり得るのです。

記事より引用。太字は筆者

「自分らしさの確認」ですね。

そして「不安もある」と言っています。

見られたいのか、見られてもいいのか、残したいだけなのか。その区別があいまいなまま感情や考えを発信すれば、時に批判や無関心に傷つく。

記事より引用

さっきの分類の、レベル①を超えるときは気を付けた方がいいということですよね。これはSNSの問題です。特に、本音が出るX(Twittere)はよくあります。反応がなければないで傷つく。

SNSと日記を同列にしているから、何だかややこしくなってしまいましたね。

終わりに

さてさて、とにもかくにも、今日も今日とて、こうやって新聞記事の感想を書いたり、日常生活の出来事を発信しています。
最低限、誰かを傷つけたりしていませんように。著作権も大丈夫か。


*画像はタイ旅行の時の。


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