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「美」は解るものではなく、求めるもの

美は、もはや真面目に考えられておらぬ…(中略)展覧会の人混みのなかにいて、私の心を苦しくするものは、これらの人々が、現に経験しているその生き生きとした感情を、決して家まで持って還りはしまい、という考えであった。やがて覚めねばならない夢なのである。何故美は現実の思想であってはならないのか。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p176

小林秀雄が「美」という言葉を持ち出すと、途端に心が慌ただしくなる。

(「一言芳談抄」は)一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。(中略)そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事ができないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

『無常という事』「小林秀雄全作品」第14集p143

美しさ。美学の萌芽。美学。たたみかける美しさという言葉の解釈に戸惑うのは、今も昔も、高校現代文の教科書で『無常という事』を読まされる高校生だけとは限らない。

美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。

『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集p247

小中学生に向けて書かれた文章だけあって、もっとも響いてくる、染み込んでくる。「美の問題」で最後に行き着くところは、『美を求める心』の文章であることに疑いはない。しかし、もっとも根本である「美とは何か」という疑問に対しては、『美を求める心』であっても答えてくれまい。述べていないから、というより、答えるつもりがないからだ。

実際のところは、絵が解るとは解らないとかという言葉が、現代の心理学的表現なのである。(中略)絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。(中略)絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。

『偶像崇拝』「小林秀雄全作品」第18集p203

この「絵」という言葉を、「美」に置き換えて考えてみたい。「美」が解るとか解らないとかいう言葉を用いるのが、そもそもずれている。「美」を理解することとは全く別種な認識を得ることが大切だ。それが「美を求める」ことである。「美」は解るものではない。「美」は求めるものだ。

ともすれば空想や夢想に入り込む感覚をともない、「夢」そのものと考えても構わない。しかし、「美」は観念でも通念でもなく、眼の前にあるものを求めてこそ「美」なのだ。だから現実の思想として、その生々しい感じ方を持ち帰ればいいというわけだ。まさに、美は経験である。

(つづく)

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