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火の山四 第一章 幽霊の世界 「首切り地蔵が目を真っ赤に泣き腫らしたこと」

 水月(みづき)と喫茶店で会ったあの日から、僕の世界は微妙に変わってしまった。
 僕の夢、子どもの頃から繰り返し見ていたあの夢。
 でも、世界が変質しつつある今、夢が現実に浸透し、どこまでが現実でどこまでが夢か、その境界が僕には分からなくなっている。
 僕の父は交通事故で亡くなった。
 その記憶は僕の脳裏にしっかりと刻みつけられて、動かしがたい事実であったはずだ。だが、それも今となっては怪しい。
 夢がしだいに現実を侵食しつつある。
 僕は夢の世界に潜り込み、そこから何らかの真実を引きずり出してこなければならない。なぜなら、父の存在が現実かどうかは、僕自身の存在に関わることだから。
 水月の出現で、何もかも変わってしまった。
 ロール・プレイング・ゲームで、物語のキーとなるアイテムを発見した時、その世界自体が変化するように、水月の出現する前と後とでは、この世界自体が異なるのだ。
 今まで現実と信じて疑いもしなかったものが、一つ一つ怪しく思えてくる。だから、僕は自分の夢に立ち返らなければならない。


 何才くらいのことだろう。
 空を見上げると、突然夕陽が堕ちて来て、それが真っ赤に充実した病人の瞳のように思えて、僕は父の手をぎゅっと握りしめた。
 両側は秋の田圃で稲穂は重たく頭を垂れていた。土手に挟まれた細い田舎道、僕は父に手を引かれ、とぼとぼと項垂れて歩いていた。
 辺りは薄暗く、しんしんと冷え切っていて、山の向こうは濁った赤に染め上げられている。
「お父さん、どこに行くの?」
 そっと父を見上げた。
 父の顔は凍りついたままで、ただ一点前方を見据えたままだ。
 この細い道は真っ直ぐ国道に突き当たり、交差点ではシグナルが真っ赤に点灯している。
 
 父は今までの父ではなかった。
 人造人間のように、父の頭の中は僕の理解できないネジがいっぱいあって、それがぎりぎりと鈍い音を立てて回転しているのではないか。
 空が重たくて、今にも堕ちて来そうだった。
「お父さん、何だか変」
 僕は小さな声で言った。それでも、父は何も答えない、青白い能面の顔を引きつらせて、僕を引きずるように真っ直ぐに歩いて行く。
 これからどこへ何の目的があって行くのだろう。僕の心臓がどくどく音を立てた。
 交差点の片隅に小さな祠があり、そこには一体の首切り地蔵が祀ってある。昨夜の夢を思い出し、急に足を止めた。
 あの首切り地蔵が夢の中に登場したんだ。
 地蔵は黙ったまま、僕をじっと見据えていた。でも、その地蔵は目を真っ赤に泣き腫らしていたのである。
「お父さん、危ない!」
 そう叫んだ時、僕はもの凄い力で、交差点に吸い寄せられていた。交差点は往来が激しく、トラックが大きな音を立てて何台も通り過ぎていく。
 咄嗟に土手に生えている大きな雑草にしがみつく。ところが、雑草は根元からごっそりと抜けて、そこから無数の赤い甲虫がぞろぞろと這い上がってくる。
 僕は悲鳴を上げて、思わず手を離した。それでも、赤い甲虫は指先から腕を伝って、服やシャツの中に入り込もうとする、
「いやだ。気持ちが悪い」 
 僕は夢中で走り出した、
 赤い甲虫は顔の上を這いずり回り、ぼくはべっとり血塗れになったみたいだった。
 目の前の交差点で、シグナルがちかちかと僕を招いていた。
 交差点はわずか三十センチほど、一足で飛び越せると、シグナルが青から赤になる一瞬、僕は思いきり足を蹴った。
「危ないぞ!」
 背後から父の怒鳴り声が聞こえた。
 ところが、前に踏み出した足が地面の感覚を失って、いつまでも地に着かない。
 ほんの一歩の距離と思った道路がみるみる広がっていき、僕の足は宙を彷徨い、どこまで行っても着地点を見つけることができない。

 それから僕はどうしたのだろう。
 気がついた時、辺りは真っ赤な世界だった。
 世界中に赤い雨が降っている。空も町並みも街路樹もすべてに赤い雨が降り注ぐ。
 シグナルが真っ赤に点灯したまま凍りつき、車のヘッドライトの灯りが僕を真っ赤に照らした。
 あの赤い甲虫がきっと町中を這いずり回っているんだ。まるで画用紙に描いた絵の上に、赤い絵の具のチューブを潰してしまったみたいだ。
 どこかで痛い痛いと泣き声が聞こえたが、僕は悪戯が見つかった時のように、何だか後味の悪さを覚え、静かに体を横たえていた。
 心臓が破裂しそうなくらいどくどくと血を送りだし、よそ行きの服がぐっしょりと濡れているように思えた。
「こんなに汚しちゃ駄目でしょ」
 洗濯するお母さんの怒った顔が一瞬脳裏を掠める。
 その時、突然僕の口からサイレンが飛び出した。僕の意志とは無関係に、サイレンは次第に大きくなっていく。人々のざわめきが大きくなり、誰かの泣き声が耳の奥でこだまする。
 大勢の人々の話し声が体の上を交差し、僕はみんなが自分の噂をしているのだと、全身を耳にした。
 僕はとても泣きたいと思ったのだ。
 でも、どんなに泣こうとしても、喉が渇いていたのか、声が出なかった。
 お母さん、お母さん、痛いよおーー
 赤い甲虫が目の中に飛び込んできて、目を開けることができないほど痛いんだ。
 僕は心の中で何度も叫んでみた。
 だけど、お母さんは何も知らずに、家で一生懸命洗濯物を干しているに違いない。僕とお父さんが赤い甲虫に襲われて、体中を蝕まれていくのに、お母さんはそんなこと、夢にも思わずに鼻歌を歌っているのかもしれない。

 その時、世界が炎を上げて、一斉に燃えだしたような気がした。
 シグナルまでもが真っ赤に燃えだし、今にも僕を焼き尽くそうとする。
 火の山ーー
 ふと、そう思った。
 そうだ、お父さんはどこだろう。
 僕はお父さんを探さなきゃ。
 体をゆっくり起こそうとした瞬間、突然地面が割れ、僕はどこまでも地の底に堕ちていった。

 いつの間にか道路は一本の小さな川となっていた。
 川の両側は足首まで枯れ草が密集し、歩くたびにさくさくと乾いた音がした。周囲は一面の秋の野原である。
 僕は一枚の風景画に塗り込められてしまった。
 お父さん、
 お父さんはどこだろう?
 僕は注意深く辺りを見渡した。
 川の流れはゆったりとし、僕は川の向こう側に、父が困った顔をして、ぼそぼそと頭をかいているのを見た。
「おとうさああーん」
 僕がそう叫ぶと、父はゆっくりとゆっくりと僕に手を振った。まるで最後のお別れをするかのように。
 僕は何度も父の名を呼び、叫んだ。
 僕の声が聞こえないのだろうか?
 父はじっと僕を見つめるだけで、やがて案山子のように動かなくなった。
 僕は二度と会えない気がして、自分の鼓膜が破れるほど大きな声で泣いた。
 こちら側はまだ真っ赤な夕焼け空なのに、向こう岸だけはすっかり日が暮れ、父が再び思い出したかのように手を振り出したのが見えた。
 まるでゼンマイ仕掛けの猿のようだった。
 でも、二人の間には小さな川が邪魔をして、一緒になることができない。
 遠くの方から真っ黒な空が近づいてくる。時折激しい風が吹き、僕の肌はぞくぞくと鳥肌が立った。
 川はやがて広がり始め、二人をしだいに引き裂いていく。
 父の姿が遠くなる。

 そして、辺りは真っ暗になった。

「おい、君」
「えっ」
「君だよ。君」
 声の主は太った警官だった。
 よれよれの制服を着て、手には棍棒を握りしめていた。
 僕は思わず顔をしかめた。やたら唾を飛ばして話すのだ。
「迷子か?」
 僕は少し後退りながら、頭を横に振った。
「違うよ、信号が赤になるのをここで待っているんだ。青になると、お父さんが深い川を渡って、僕を迎えにこちらに来るんだ」
 警官は訝しげに、僕の顔を覗き込んだ。
「坊主、気の毒だが、お前はもうお父さんには会えない。信号は赤になったまま、永久に凍りついてしまったんだよ」
 僕の背中に悪寒が走った。
「いやだよ、いやだ」
 それから僕は警官に背を向け、夢中で駆け出した。
 少しでも離れようと川沿いの道を走り、警官お姿が見えなくなったところで、ようやく立ち止まった。
 ぜいぜいと息切れがした。
 急に寒さが厳しくなり、僕は両手をポケットに突っ込み、髪を逆立ててどこまでも歩いた。道を三回曲がり、小さな橋を渡った。
 川には父の帽子が流れていた。
 何もかもが画用紙の表面のようにざらついていた。
 道はしだいに細くなり、頼りない一本の線のようだった。
 僕を包み込んだ画面ははち切れそうな球だった。僕の心臓がどきどきするたびに、それは軽く浮き上がった。
 世界全体がふわふわと舞い上がる。
 どこまで歩いても、父は見つからなかった。
 歩いても歩いても川は尽きることなく、川幅は広がるばかりで、やがてそれは海に流れ込み、海の中で僕は一匹の小さな魚になった。

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