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火の山十九 第二章魔王と魔性の女「マスターが謎を解いた時、世界が変わった」

 「洋、俺が待っていたのは、お前だ」と、マスターが再びそう口にした。

 僕は黙ったまま、カウンター越しにマスターと睨み合っていた。
 いったいマスターは何物なんだろう。
 今度は僕の番だ。
 僕は懸命に記憶の引き出しを片っ端らから開けようとした。そして、自分の過去にも記憶の空白を見出し、愕然とした。

 そうだ、僕は火の山以来、ぽっかりと記憶の空白がある。そして、その空白には何が起こっていたところで、責任の取りようがない。たとえば、その空白の間に殺人事件が起ころうとも。
 僕だって、マスターと同じ状況に置かれているのだ。

「洋、火の山の話、覚えているな?」
 マスターが僕を見て、そう言った。マスターの鋭い視線が僕の額を貫き、僕は記憶の空白を探り当てられたように感じて、居心地が悪くなった。
「もちろん、覚えているよ、僕の脳裏にこびりついて、離れないんだ」
「以前、お前に火葬場を連想させるって言っただろ? 俺はあれから考えた。例の事件が起こったその日から、この喫茶店に閉じこもって、考えて考えて考え抜いた。火のイメージ、水のイメージ、少女の生首、どこでどうつながっているのか、俺はその謎を解こうと懸命になった」

 僕はマスターに射すくめられた小さな獲物のようだった。体が硬直して、思うように動かない。
 マスターはどんな恐ろしい秘密を嗅ぎつけたのか。
 僕は嫌な予感に駆られて、次第に体の芯から震えを感じていた。

「水のイメージ?」
「ああ、お前の心をつかむ幽霊、水月のイメージだ。お前は火の山で水月に出会った。水月とは何者で、なぜお前と火の山で出会い、なぜお互いにそれほど惹かれたのか? その謎を解くには、水のイメージを追いかける必要がある」
 僕は生唾を呑み込んだ。

 マスターに解剖されているみたいで、次第に鳥肌が立っていく。
 マスターが言葉を続けた。
「そして、お前は水月のことを透明だという。いや、誰が見ても水月は透明な印象を与えるらしい。それはなぜか? そこで俺は一つの仮説を立てた」
「仮説?」
「ああ、そうだ。水月はすでに肉体を喪失していた。だから、透明なのだ。そう考えれば、すべて上手く説明がつく」
「待てよ。それじゃ、水月は本当の幽霊じゃないか」
 僕は思わず声を上げた。

「慌てるな。あくまで、仮説だよ。水月がなぜ水のイメージを纏っているのか。それは俺にも分からない。それはおそらく水月の死因に関係があるのではないか」
 僕の眼に、一人の痩せぎすな男が映る。
 その男は魔術師のように、不思議な言葉を撒き散らす。
 男の言葉が、僕に魔法をかけた。
 僕は懸命にマスターの言葉を打ち消そうとした。だが、記憶の空白の前には何が起ころうと、自分で責任が取れないように、僕にはマスターの言葉を打ち消すだけの根拠がなかった。

「じゃあ、火の山は?」
 僕が掠れた声で聞く。
「以前、言ったと思うが、あれは火葬場だよ」
 と、マスターがさらりと言った。
「火葬場?」
 僕は思わず聞き返した。
「すべては想念の中での出来事だよ」
 そう言って、マスターは煙草に火を付けた。薄暗い店内で、マスターの背後には色とりどりに酒のビンがぎっしり並んでいる。煙草の煙がゆっくりと上昇し、天井に届く前にふわりと消えていく。
 マスターは壁にもたれ、ぼんやりと煙の行方を追っている。

「火葬場が、僕たちの想念の中で火の山に成長した?」
「その通り。以前、お前、火の山は子どもを棄てに行く場所だって、言ったな?」
「僕も水月も火の山で母に棄てられたんだ」
「そう、それだ」
 僕はマスターの表情を窺おうとした。暗がりの中、マスターは自分の足下を見つめ、無表情のその中にいったいどんな情念がこもっているのか、僕には分からない。

「マスター、最初から順を追って説明してくれよ。僕にはまだ呑み込めない」
「そうか、では始めるとするか。まずはお前の交通事故の場面だ」
「何だか、マスターが検事で、僕が被告席に立っているみたいだな」
 と、僕が言う。
「お前は信号が赤になる瞬間、交差点に飛び出し、それを助けようとしたお前の父とトラックに轢かれた。死んだのはお前の父親の方で、お前は奇跡的に助かった。いや、正確に言うと、お前の父は病院に運ばれ、長い昏睡状態の末、亡くなった。ここまでがお前の説明だ」
「ああ、あの時の情景は今でも脳裏に焼き付いている。そして、父は僕のせいで今でも虚無の世界に彷徨っているんだ」

「子どもに死の概念は分からない。死んだのは、洋、お前の方だよ」
 マスターが僕の顔を真っ直ぐに見た。まるで、僕の額を射貫くように、捕らえた獲物を逃がさないように、目が鋭い光を放っていた。
 僕は言葉を失ったまま、真っ青な顔で震えている。

「そんな……では、今の僕は……」
「まあ、慌てるな。あくまで仮説だ。死んだ瞬間、お前は想念の世界で蘇った。生きていた頃の想念が具象化したわけだから、お前の目の前には今までと変わらない世界が現出する。だから、お前は自分が死んだことが分からない」
 僕は懸命に、あの頃を思い出そうとしていた。

 僕が連続していると信じ切っていた時間に、どこかで断層があるのだ。めがねを初めてかけた時、同じ世界が異なって見えたように、火の山の光景が僕の脳裏にこびりついた時から、確かに僕の世界は微妙にどこかが違っていた。
 マスターは続ける。
「肉体を喪失した時、お前の想念がお前の世界を再現した。だが、想念の世界はこれまでの世界とはどこかが微妙に異なっている。まだ子どもだったお前には、そのことが理解できない。想念の世界は現実世界と表裏一体で、それぞれの波動が微妙に影響し合っている。その想念の中で、お前は現実の父の死に遭遇した。そして、お前は自分のせいで父が死んだと、すっかり信じ込んでしまう」

 僕は唇を血が出るほど噛みしめた。
「お前は絶望のあまり、自らの世界を閉ざしてしまう。暗いところで蹲り、いつまでも何も見ようとしない。何も聞こうとしない。両手で耳を塞ぎ、背中を丸め、何とも奇妙な格好だ。その姿勢のままでお前は少年から青年へと次第に成長していったのだ。卵だ、まるで卵のようだ。卵の中にお前がいる。それでもお前は存在する。たとえ肉体は喪失しても、お前の魂は幼い頃のまま、本来は生きていく中で自然に経験するはずのことをすっかりツ通過して、そのまま成長していったのだ。透明なのは、洋、お前の方だ」

 そうだ、随分長い間、一人で歩いてきた。どのくらい歩き続けたのだろう。ある日、遠くに微かな光が見えて、僕はその光に向かって夢中で走り始めた。
 これ以上走ったら、心臓が破裂しそうだと思った時、その光の向こうで、水月、君が微笑んでいたんだ。

「次にお前が見た光景は、火葬場だった」
「火葬場」
「すでにお前の想念の中には、火の山の世界の原型ができつつあった。交通事故の瞬間、お前の脳裏に焼き付いたものは、シグナルの赤、車のヘッドライトの明かり、そして、真っ赤な血、死ぬ瞬間のそうしたイメージがその後の想念の中で次第に具象化していく。そして、火葬場だ」
 僕はすっかり言葉を失っていた。マスターはあくまで仮説だという。だが、その言葉の一つ一つが恐ろしいほど僕の心臓に杭を打ち込んだ。
 その時、僕の脳裏には火の山で燃やされる自分の姿がはっきりと蘇っていた。

「母親が泣きながら、お前の遺体を火葬場に連れて行き、そこでお前は燃やされる。まさにそれは火の山そのものではないか。お前は自分のせいで父が死んでしまったと思いこんでいる。だから、母に棄てられて、火の山で燃やされるのだと、子供心にそう思いこんでも、決して不思議はない」
「でも、水月も火の山で棄てられたんだ」
 僕は掠れた声を絞り出すように、そう言った。
 

 光の向こう側で、君が手を差し伸べている。
 水月だ、なんて眩しいのだろう。
 でも、光の向こう側には行ってはいけない、あれは僕の世界ではない、君が作った世界なのだ。
 そう思って後ずさりをしようとする。水月はシルエットだけになって、揺らめいている。
ーー行カナイデ。
 水月の泣き声が僕の心臓を掴んで離さない。
ーーアナタガ、必要ナノ。ズットズット待ッテイタ。
 僕は思わず振り返ってしまった。
 何度も何度も振り返った。
ーーアア。
 邂逅は一瞬だった。

「そうだ。そこでお前たちは出会った。おそらく水月もまた火葬場で燃やされたのだろう。死んだ瞬間、お前たちはそれぞれの想念世界に蘇ったのだ。当然、自分が死んだことへの自覚などない。そして、ともに火葬場で自分が焼かれる場面を目撃する。その衝撃から、お前たちは母親に棄てられたのだと思いこむ。想念の中で、火の山のイメージが次第に具象化する。孤独がお前たち二人を結びつけたわけだ」
 僕が抱きしめようとすると、水月の黒髪から火がつき、やがて全身が燃え上がる。でも、水月の体を焼く火はどこか透明で、実際肉体が焦げる匂いなどしなかった。
 

 確かに、それは幼い僕の想念が作り出した世界だったのかもしれない。
 そして、僕の胸には悲しみだけが残った。
 父が死に、母に棄てられ、水月の体が燃えてなくなってしまい、この世界にたったひとりぼっちになってしまったのだ。
 幼い魂には耐えられないほどの喪失感。
 だから、僕は僕の過去を閉ざした。K大学で水月と会うまでの過去の時間が、本当に存在したかどうか分からない。
 いや、想念の世界には、時間そのものが成り立たないのだ。

「洋、おそらくお前はあの時死んだのだ」
 マスターはそう宣告した。
 僕はマスターの青ざめた顔をじっと見つめていた。自分がすでに死んでいることは、これまでも何となく予感めいたものがあった。
 だが、マスターから改めてそう宣告されると、体の芯から震えだし、止まらなくなった。
 では、今目の前にいるマスターは、いったい何者なんだ。本当に少女を殺して、生首を切り落とした殺人鬼なのか。

 魔王。
 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
 その瞬間、マスターのすべての髪の毛が一斉に逆立ち、目が真っ赤に充血したまま吊り上がった。
「お前は、すでに死んでいる。水月も幽霊だ。それなら、今お前の目の前にいるこの俺は、いったい何者なんだ」
 僕は驚いて、マスターを見上げた。
 マスターはそばにあったガラスのコップをガチャンと握りつぶした。

「俺は神も悪魔も信じない。死後の世界なんていうふざけたものも信じていないぞ。現に、俺はこうして存在している。お前たちの存在こそが、俺を悩ませるのだ。俺は今幽霊を相手にしているのか。それとも俺もまたその幽霊の一味なのか。俺は本当に理由もなく少女を殺したのか。これから先も少女の首を切り続けるのか。そもそも殺された少女は本当に存在していたのか。その少女もまた幽霊ではないのか。俺は自分の頭脳しか信じない。考え考えて考え抜かなければならない。だから、こんなに苦しいのだ」
 マスターはもはや僕の知っているマスターではなかった。心なしか、体も一回り大きく膨らんだような気がする。

 以前は知的でどこか皮肉っぽいところがあったが、それでいて静かでゆったりと相手を包み込むような雰囲気があった。
 今や、マスターの顔は欲望と憎悪で赤くむくみ、眼だけが異様にギラついている。辺りに嫌な臭いが立ちこめ、僕は嘔吐をもよおした。
 僕には分かっていた。マスターが変わったのではない。マスターに対する僕の想念が変化したのだ。
「いったい俺は何者なんだ。俺はここで今までなぜお前を待っていたんだ」
 マスターは髪の毛を掻きむしり、苦悶の表情を浮かべた。そして、カウンターの下から何かを取り出し、僕の前に差し出した。
 それは血まみれの包丁だった。
 僕は驚いて、マスターの顔を見た。

「まさか」
 僕は思わず言う。
「そうだよ、包丁だ。俺はこの包丁で、見知らぬ少女の首を掻き切ったのだ」
 マスターが吐き出すように言う。
「とても信じられない。マスターが犯人だったなんて」

「違う。誰の首も切った覚えがないのに、喫茶店の中にはこの血塗れの包丁が転がっていた。俺は本当に何も覚えていないんだ。俺はその空白の時間に対して、責任の取りようがない。だが、記憶の空白の中で、微かに浮かび上がってくる風景があった。それはいつもの夢だった。小さな川が流れている。その川のほとりに、埃を被った地蔵がいる。その地蔵はなぜか首がない。気味が悪くて辺りを見回すと、地蔵の首は目を真っ赤に充血させて、俺の足下に転がっていた。気がつくと、俺の手には血のついた包丁が握りしめられていた。この地蔵の首を切ったのだろうか。俺は慌てて、包丁を川の水で洗い出した。だが、どれほど懸命に擦っても、包丁にこびりついた鮮血は取れはしない。俺は叫び声を上げ、包丁を投げ出そうとした。だが、俺は右の筋肉がガチガチに固まって、指が動かなくなってしまった」
 僕は恐ろしくて、言葉をすっかり失ってしまった。ただ呆然とマスターは見つめていた。

「教えてくれ。俺はいったい何者だ」
 僕は黙っていた。体は金縛りにあったように、身動きできない。
「洋、お前を殺せば、真実が分かるのか? お前と水月を殺せば、幽霊の正体が掴めるのか? 俺は知りたいのだ。この世界の真実を。俺はこの目で、この手で、この頭で、すべてを掴みたい。この俺が現に存在する限り、俺は自分の死を認めない。洋、分かるか?」
 マスターはカッと目を大きく見開き、その充血した眼からは微かに血の涙が滲み出していた。
 僕は思わず席から立ち上がり、そこから逃げだそうとした。

 突然、僕の中に言葉にならない悲しみが沸き起こってきた。
 マスターはこの喫茶店でずっと誰かを待っていると言った。そして、その相手は僕だと告げたことも覚えている。
 僕は懸命に父の容貌を思い起こそうとした。無神論者で、何でも自分の頭で考え抜かないと納得しない。確かに父とマスターはあまりにも共通点が多い。だからこそ、無意識のうちにマスターに惹かれていたのかもしれない。

 そうか、同じ人間でも子どもの視点から見るのと、対等な大人の視点から見るのとでは、イメージはまったく異なるだろう。
「お父さん」
 僕はぽつりとその言葉を口にした。
 マスターは一瞬ぎょっとし、僕の顔をまじまじと見た。
 そうだ、僕が死んだ時、父はまだ若かったはずだ。そして、僕の想念の中父はその時のまま永遠に凍りつき、年を取ることがなかった。
 

 僕はあの時、父を虚無の中に一人置き去りにした。その時の恐怖が、僕の想念を作り変えたのだ。
 父は僕の記憶の中の父と別な容貌で、僕と出会うのをじっと待ち続けていたのか。
 喫茶店。
 父はあまりにも長く、ここで僕を待っていた。そして、いつの間にか自分が誰なのか、いったい誰を待っているのかさえ忘れてしまったのだ。

 大粒の涙が、僕の頬をゆっくりと流れ落ちた。
 父は僕のせいで、今こんなに苦しんでいる。そして、やっとその父に会えたんだ。
「お父さん、あなたは僕のお父さんだったのですね」
 僕は思わずそう言った。
 だが、マスターは恐ろしい形相で、僕を睨みつけたままだった。
 僕の言葉はもうマスターに届くことはなくなったのだろうか。

「洋、お前はいったい何者だ。俺の子どもなんてことは、とても信じないぞ。お前は俺の想念が生み出した幻影なのか? それなら、今、お前をこの手で殺したところで、何の問題もない。俺は知りたいんだ。この俺自身と、この世界のありようを。そのためなら、何だってする。殺人だって、厭いはしない」
 マスターはカウンタ越しに、血塗れの包丁を僕の頭に振り下ろそうとした。
 僕の体は素直に反応し、僕は振り下ろされる包丁を瞬時にかわして、転がるように喫茶店の外に出た。

 突然、明るい光が僕の眼を刺し、僕は思わず眼を閉じた。一呼吸置いて、僕は駅前の大通りまで夢中で駆け出した。
 喧噪が僕の耳に飛びこんでくる。
 振り返ると、マスターが包丁を振りかざしながら追いかけてくる。

「お願いだ。誰か教えてくれ。俺はいったい誰なんだ。喫茶店のマスター? 誰が信じるものか。俺は決して誤魔化されないぞ。どこで産まれて、兄弟は何人? 父親は何ていう名前で、母親は何才なんだ。嫌だ、もう何もかもが嫌だ。頼むから教えてくれよ。誰でもいいから、俺に教えてくれ。俺はもう存在しないのか? 幽霊? どこで死んだのだ? 違うだろ? 俺は死んでなんかいないよな? 頼むから違うと言ってくれ。お前は立派に存在し、ただ一時的に記憶を喪失しているだけなんだと」

 マスターは大通りに飛びだし、雑踏をかき分けながら、そう叫び始めた。
 通行人を押しのけ、わざと乱暴に振る舞っているように思えた。
「不安なんだよ。怖くて仕方がないんだ。誰か助けてくれ。誰でもいい。お前は立派に存在していると言ってくれ。おい、何とか言ったらどうだ」
 他人の注意を惹くことで、自分の存在を確かめようとしているのだろうか。マスターは誰彼構わず縋り付こうとしている。
 だが、彼らは一向にマスターに注目する様子がなく、それぞれ黙々と自分の目的に向かって歩いている。
 その静けさは逆に気味の悪いものだった。

 マスターはその場で座り込んでしまった。

ありがとうございます。とても励みになります。