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誤解されている大学入試改革

 問題山積みの大学入試改革。英語の民間検定試験導入が四年後に延期されたが、四年間で問題が解決される可能性はきわめて少なく、おそらく中止になるに違いない。さらには、大学入学共通テストにおける国語と数学の記述式問題が採点問題で疑問視され、新たな火種となりつつある。
 そこで、私なりの意見をまとめておくことにする。
 まず民間の検定試験導入を云々する前に、大学入学試験に四技能を入れること自体が疑問である。大学入学試験は「読む」「書く」が中心であって、せめて「聞く」までに留まるべきである。「話す」を試験で判定しようとするから、民間の検定を活用せざるを得ないのだ。なぜなら、大学入学試験は大学で学問をする能力を判定するものであって、それには「英会話」は必要ないのである。アメリカでは幼稚園児でも英語を話しているが、その幼稚園児が大学で学問をする能力があるわけではないのは言うまでもない。もちろん英会話が不必要だと言いたいのではない。大学入学試験に四技能を組み入れる必要がないと言いたいのだ。
 大学入学共通テストに記述式問題を出題することにはさらに大きな問題である。五〇万人の答案を二週間で採点することはほぼ不可能であり、しかも採点者はベネッセの子会社が約61億円で請け負っている。おそらくかなりの数の大学生がアルバイトで採点行うことになる。質の良い採点望むべくもなく、しかも、様々な指摘されているように、自己採点も困難なため、国公立の二次試験の出願校を決定することができない。そうかと言って、誰でも公平な採点が可能な問題にするためには、様々な条件を付け、文中の言葉を抜き出す形式にするしかなく、それでは共通テストの目的とする「思考力、判断力、表現力」を試すことなどできなくなる。
 結局は、五十万人を短期間で採点する共通テストに、記述式問題を出題することは不可能なのである。

 ただし記述式問題では、採点官によって評価が異なるから公平性を担保にできないという反対論には疑問を呈する。なぜなら、そもそもセンター試験ではすべてがマークセンス方式であり、五択の場合、もし分からなくてもまぐれで得点できる可能性が高いからである。目をつぶって一つ選んでも二割の確率で当たる。しかも、センター試験においては、選択肢を二つまで容易に絞ることができる。すると、まぐれ当たりの確率は五割にもなる。つまり、入試に於いては運はつきものであり、正確に学力を判定することなどどだい無理な話なのである。


 もう一つの問題は、特定の業者が採点を一手に引き受けることで、受験生の情報を独占できるということである。その結果、検定試験の対策本や記述式を含めた共通テストの対策本が次々と刊行されることになるであろう。当然、学校の現場もその業者の検定試験や模擬試験等を採用せざるを得なくなる。その結果、教育の多様性が損なわれていく。
 本来、大学は自分たちの学生を自分たちで選択すべきであり、一つのテストで全受験生を判別すること自体がおかしいのだ。個別試験ならば、十分「思考力、判断力、表現力」を判定することは可能であり、それができない大学は質のいい学生を集められないだけのことである

 様々な問題点を指摘してきたが、大学入試を含めて、教育改革の手を決して緩めてはいけない。制度の問題がどうであろうと、世の中が必要とする学力が詰め込まれた知識や機械的な計算力ではなく、また少子化によって選抜試験そのものがやがて成り立たなくなっていくという状況に変わりはないからである。

 大学入試改革は第四次教育再生会議の提言から始まった。その時は共通テストの正式名称は決められていなかったが、とりあえずは「達成度テスト」と呼ばれ、一点刻みに採点しない、複数回受験をうたい文句にしていたのだ。私はその方向性自体には賛成だった。
 選抜試験とは大学の入学定員よりも受験生が圧倒的に多い場合に限って、大学側が合格者を選抜することになる。ところが、これから先ゼロ歳人口まで子供たちが減り続けることになる。現段階でも定員割れする大学が続出しているのである。数年後にはほとんどの大学にとって選抜試験自体が意味のないものとなる。その結果、大学側は一切の学力を問わず、我先にと受験生を取り込もうとする。まさに教育の崩壊である。
 そのために一定の学力を担保しないと、大学を受験できないとするのが「達成度テスト」だったのである。選抜試験ではないのだから、一点刻みに点数化をせず、求められる学力に達するまで複数回受験することが可能なのだ。一定の学力に達した受験生は、小論文、面接、集団討論等で大学とお見合いをして、相思相愛ならば入学すればいい。そういった制度改革ならば賛成だった。偏差値至上主義の学歴社会を是正することになるからである。ところが、再生会議の提言が、文科省の中教審でどのように制度化するかを議論する段階で、次々と骨抜きにされ、結局はセンター試験のほうが良かったという結論になってしまったのである。おそらく利権がらみの人たちが寄ってたかって改革を阻止したり、変容させたりしたのは想像に難くない。

 私たちが備えることができるのは、そうした制度上の改革に惑わされることなく、本物の力を蓄えていくことしかない。そして、「共通テストを」本来の「達成度テスト」に戻すことで最低限の学力を担保にし、その上であとは各大学が独自に受験生を選抜することである。


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