火の山五 第一章 幽霊の世界 「水月の魂がふわふわと宙を彷徨ったこと」
あの時から、僕の時計が壊れてしまった。
ガチャンと音を立てて割れたのではなく、ぐにゃっと歪んだように、時間の先っぽが折れ曲がって、僕の過去と連続してしまった。
戸惑いながらも時間の道を歩き続けるのだが、それが未来に向けてなのか、過去に向かっているのか、僕にも分からない。
ただ確かなのは、僕の足下にはいつだって現在という時間が、影のようにへばりついていたということだ。
現在という地点に立ち止まり、僕は行き暮れている。
足を一歩前に踏み出した時、僕は現在から転がり落ち、過去とも未来とも分からない時間の迷路を彷徨い出すのではないか。
僕はどうしていいのか分からず、思わずその場でしゃがみ込んでしまった。
この世界のすべてが疑わしく思えてきた。
世界?
マスターはいつか、世界は解釈に過ぎないと言った。
彼は虚無の迷路に入り込んでいるのだ。
それならば、解釈が変われば、世界それ自体が変わるのだろうか。
僕は謎を解かなければならない。
謎を解いて、父を虚無から救い出さなければならない。そのためには、僕は過去を断罪する。
水月の謎ーー
僕はそれを解いて、歪んだ時間を元の直線に直さなければならない。
僕と水月は大学の講義を抜け出し、木陰に設置されている小さなベンチに腰を下ろしていた。
二人は並んで座り、寒そうに体を寄せ合った。北風が吹き抜けると、紅葉した葉がひらひらと舞い落ちる。
僕は水月を前にすると、いつだって途方に暮れてしまう。
彼女の心はほんの少しの衝撃で砕けてしまうほど繊細で、その魂はふわふわと宙を彷徨いだし、僕の手の届かないところに消えていく。
そんな感触が、僕を不安にさせる。
「ねえ、水月のお母さん、どんな人?」
水月は視線を遠くに、中央芝生の方へ向けて、しばらくは黙っていた。そして、僕の方を振り向かずに、「酔っ払いよ」と答えた。
酔っ払い?
僕にはその言葉だけでは水月の母のイメージを掴み取ることができない。そこで、さらに情報を得ようと、「もう少し質問してもいい?」と言った。
すると、水月は訝しげに僕を見た。
僕は一瞬たじろぎ、次の言葉を失った。
水月の目は深い海のようで、それでいて時折鋭い光を煌めかせる。
僕はその視線にすべてを見透かされている気がして、どうにも落ち着かなかった。
「その前に、ちょっとだけ待って」
水月はそう言って、突然僕の左の胸に耳を押し当てる。彼女の黒髪が僕の鼻をくすぐり、甘い香りがした。
「大丈夫、生きているね、ほら、心臓が動いている音がする」
「幽霊は、君の方だろ?」
水月は何も答えない。目をつぶり、いつまでも僕の胸に横顔を押し当てている。僕は両手をすっかり持てあましていた。だらんと横に垂らしているのも、何だか不自然だ。
僕は恐る恐る両腕で水月の肩を抱きしめた。
すると、水月も両腕を僕の背中の辺りに回して、身を預けてきた。僕は水月の重みをしっかりと受け止めようとした。
腕の中でかすかに震えている水月が、たまらなくいとおしい。僕はぎゅっと両腕に力を込めた。
「誰かに見られているかもしれないよ」と、僕が言った。
「いいの。だって、二人は幽霊だから、みんな気がつかないわよ」
水月がそう言って、僕の背中に服の上から爪を立てた。心地よい痛みが僕の胸を切なくさせる。
「幽霊はやっぱり、君の方だろ?」
水月は僕の質問に答えず。ただ「淋しかった」と呟いた。
僕はたしかに戸惑っていた。
あれほど恋い焦がれていた水月が今僕の腕の中にいる。僕にすべてを投げ出すようにして、体を寄せている。
その重みは現実そのものだ。
戸惑いはすぐに興奮に変化する。それは強い刺激を伴って、体の芯から沸き上がってくる。僕は一瞬、目眩に襲われた。
「幽霊に、お母さんなんていないでしょ」
と、水月がそっと言う。
僕は切なくなって、水月の体を思い切り抱きしめた。強く抱きしめれば抱きしめるほど、僕の腕はその頼りなさに戸惑った。
水月はすべてを僕に委ねたままだった。全身の力を抜き、僕にもたれかかっている。
僕には何も見えなかった。
何も聞こえなかった。
秋の寒空の中で、二人はベンチで抱き合った。
それは一枚の風景画のようであったけど、その絵の中心の二人だけはたしかに息づいている。
僕はこの世界のすべてから水月を守るように、彼女の華奢な体を思いっきり抱きしめた。
「痛い」
水月の唇から小さな声が漏れた。
細波のような興奮状態が通り過ぎた後、僕は突然風の冷たさにおののいた。水月がそっと体を離し、僕は彼女の乱れた黒髪を右手で撫でた。
邂逅は一瞬だった。
深い喪失感は埋めようもなく、僕はその事実に初めて気がつき、怖じ気づいた。見ると、水月の素肌にも鳥肌が立っていた。
「私なんて、あなたが思うほど、価値がないわ」
水月が呻くように言う。
「どうして?」
僕には何のことが分からず、嫌な予感に怯える。
「私、心も体も汚れているの」と、水月が呟く。
「だから、お母さんに棄てられたんだわ」
僕は折角掴んだと思った水月の心が一瞬のうちに遠のいたように思えて、もう一度自分の手に引き戻そうと、懸命に次の言葉を探していた。
「何があったの?」
水月は僕の質問には答えず、黙って唇をかみしめた。水月の視線はもう僕の方を刺すことはなかった。
何とかしなければと、僕の脳裏の中で様々な言葉が浮かんでは消えていた。
「私、もう行かなくちゃ」
水月が突然立ち上がる。
僕が自分の元へ呼び戻そうと手を差し出すと、水月は僕の腕をするりと抜け出し、ほんの一瞬振り向いただけで、中央芝生の方へ駆け出した。
「待って」
僕は呆然とその場で立ち尽くすしかなかった。
水月の魂は僕を離れ、宙にふわふわと彷徨ったのだろうか。
僕は結局幽霊の正体を掴み損ねてしまった。
僕は前よりも深まった孤独を抱えて、青ざめた顔で一人、中央芝生をいつまでもうろついていた。
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