乾杯

このアルバイトを始めて、もう5年半ほどが経った。

魚の美味しいこの店は小さな居酒屋で、夫婦が2人で営んでいる、いわゆる個人経営の飲食店だ。

客層は7割くらいがサラリーマン、2割くらいがセカンドライフを謳歌している人生の大先輩たち、残りの1割は観光客やカップルなど、いろいろな理由で偶然この店にたどり着いた人たちである。
「タクシーの運転手に、美味しい店を訪ねたらここを紹介された」と話す客もいた。その話を聞いたときは、ただのアルバイトなのにどういう道理か、「そうでしょう、いい店でしょう」と内心鼻が高くなったりもした。

新規客よりは圧倒的に常連客のほうが多く、私のようないちアルバイトを気にかけて、気さくに話しかけてくれる人もいる。大学生という、人生のモラトリアム期間にある私の進路や就職や、結婚の心配までしてくれる。とんでもないお節介焼きだ、と思う人もいるだろう。実際、まさしくお節介以外の何物でもないのだけれど、このずけずけとした心配を私は不思議と少し心地よく感じてもいる。

夕方ごろ私が出勤すると、店の主人であるマスターはだいたいいつも仕込みをしている。私は、マスターが魚をさばいているところを見るのがとても好きで、いつもじっ…と見てしまう。まるでもともと骨と身の間に切れ目があったかのようにするすると骨から身を外し、さらにその身を短冊や切り身に分けていく作業を、マスターはとても簡単そうに、(何ならめんどくさそうですらある)淡々とこなしている。バイトを始めたばかりのころは、あまり笑うこともなく口数も少ないマスターのことがかなり怖かったが、今ではそれがマスターの「人見知り」だったことがもう分かる。今の私が知っているマスターは陽気でよく笑う、人情あふれた人だ。

そんなマスターとともに30年店をやってきたおかみさんも、笑顔がかわいくてとっても若々しい。私の想像を絶するほどたくさんのお客さんの名前や顔、仕事、出身などを記憶しており、お客さんにはおかみさんのファンも多い。おいしい料理やお酒はもちろん、マスターとおかみさんの人柄がこの店の一番の魅力だと、少なくとも私はそう思っている。

昨今の外出自粛、営業自粛の影響をがっつり食らい、この店の客足も一時期は完全に途絶えた。もちろん店も休みになった。毎日自宅にこもり、持て余した時間を料理や読書などにぶつけつつも、私は店のことや、お酒が大好きな常連客たち、それから仕事が大好きなマスターとおかみさんのことを思い出しては一丁前に店の心配をしていたが、先月からバイトを再開できることとなった。

そんな中で、ある2組のお客さんが来店した。

その二人は、店が休業する前までは月に2,3回ほどのペースでのみに来ていたサラリーマン二人組だ。料理やお酒を持っていくと毎回、にっこり笑って「ありがとうね」と言ってくれ、さらに店が忙しいときには「あとでいいから」と、自分の注文を後回しにするよう指示してくれるなど、初めて会ったときには「なんて優しい人なんだ」と驚いたのをよく覚えている。そんな二人が、数か月ぶりに店にやってきた。普段のスーツ姿ではなく、いつもよりかなりラフな格好だった。

いつも通りのコース(お刺身や焼き魚など日替わりの料理4品に飲み物2杯という、ちょうどよく満足できてお得なコースなのである)を注文し、いつも通り1杯目に生ビールを注文した。「生ビールです」とビールを席にドンと置いた私の顔を見て、二人は私のことを思い出してくれたようだった。いつぶりだろうねえ、と少し世間話をし、ほかの仕事もあったのでそんなに長話はしなかった。

3杯目の冷たい日本酒を彼らの席にもっていくと、ひとりが「忙しくて大変だろうから、裏でオレンジジュースでも飲みなさい。ちゃんと休みなさいよ」と声をかけてくれた。少し注釈を入れると、お酒でなくオレンジジュースなのは、(飲み屋の店員のくせに)私が酒が苦手であることを知っているからこそのチョイスだ。はじめは冗談だと思い、実際その日は結構忙しかったので、その優しい心配りにお礼だけ言い、ジュースは飲まずにいつも裏で飲んでいる冷たいほうじ茶をひと口飲んだ。

そのあと、彼らのもとにおかわりの日本酒を持って行くと、「ちゃんとジュース飲んだ?」と確認までされた。どうやら、本当に差し入れてくれていたらしい。失礼な受け取り方をしてしまったな。これまで働いてきた5年間で、お客さんから出張先のお土産のお菓子などをいただくことはあっても、お酒を飲めない私が勤務中に差し入れをいただくのは初めてのことだった。とは言え、勝手にお客さん用の飲み物を飲むわけにもいかないので、驚きながらもおかみさんにこのことを報告すると、「あら、よかったね!じゃあ、私が作りますよ」と快くオレンジジュースをグラスに注いでくれた。それから、「せっかくいただいたなら、ご挨拶してこなきゃね。私も一緒にお礼言うから!」と一緒にお礼を言いに来てくれた。

「ジュースありがとうございます、いただきます」と私がお礼を言うと、「いいえ。いつもがんばっているからね」と、いつものにっこり顔で行ってくれた。いつもの私の働きまで肯定してくれるなんて。今日はなんていい日なんだ、と今日あった嫌な出来事たちが途端に小さくなり、頭からすっかり出て行った。

小さなガラスのおちょこと、ゴロゴロと氷が入ったグラスで何ともアンバランスな乾杯をしたことや、いつもはそんなに良くは思わない、ごく普通のオレンジジュースのわざとらしい甘さにじんわりと幸せを感じたことを、私はきっとこれからも、ふとした瞬間に思い出すだろう。


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