見出し画像

「推す」ことは生きる糧

先日、宝塚月組公演「桜嵐記」に行ってきた。

泣いた。いやー泣いた。涙もろいとはいえ、まさかマスクがびしゃびしゃになるがち泣きをするとは思わなかった。私の中の号泣の松竹梅レベルでいうと「竹」クラスだった(ちなみに「松」になると声を押し殺して喉が痛くなるしアイメイクはすべて流れ落ちる。この域には劇団四季「夢から醒めた夢」とレ・ミゼラブル札幌公演(2019)でしか到達したことがない)。なぜ感動したのかというと、単純に物語が美しい。私自身「志」に身を委ね主人公が果敢に試練に挑む作品が好物というのが大きいのに加え、ストーリーの流れと登場人物の性格・関係性が今の月組とシンクロし涙を誘った。

そして、私はこの公演で珠城りょうに落ちた。まだヅカファン1年レベルの身であっても彼女の存在は知っていたが、映像でみていてもそこまで自分のフェチタイプ(笑)ではないことから「一人の素敵なトップスターさん」という印象しかなかったし、初めての月組観劇(ピガール狂騒曲)でも、珠城りょうの魅力を認識したもののいわゆる「沼」には落ちなかった。ところがこの日は前回よりも前の席であったこともあるのか、珠城りょうが放つオーラ、包容力を感じ終演後は不思議な高揚感を感じた。その翌日、時間があったので宝塚グラフ(宝塚版Myojoみたいなもの)を購入するために日比谷にある宝塚のグッズショップ(キャトルレーヴ)に行ったのだが、気づいたら珠城りょうのポストカードを二枚購入していた。いやいや、ポストカードとかブロマイドとかなんのために買うのよ、とやや冷めた目で見ていた私が買ってしまったよ。帰り道は、引き続きの高揚感と、明日へのやる気に包まれていた。

私は自分をオタク気質だと思っている。昔から一度好きになるととことんのめり込むタイプ。対象は芸能人、歌手、スポーツ選手で、きっかけは作品とか外見のことが大半。彼らを「推し」のポジションに置き、最終的には彼・彼女の人間性や価値観までも愛してしまうくらいどっぷり浸かる。マニアックな情報までもを収集し、ライブ・イベントがあれば古今東西どこへでも足を運ぶくらい盲目になってしまう。

他人からすれば「そのパワー他に使えよ」って話だと思う。正直推し活動によって失ったものはたくさんあると思う(お金、ライフイベントetc…)。一方で得たものもあることは声を大にして伝えたい。例えば、私は20年来Mr.Childrenのファンなのだが彼らの歌詞に何度も人生の下降期を救われた。彼らの作った曲の背景を知り、物事の捉え方を学ぶこともあった。自分の中で大切にしたいな、と思える価値観に出会うことができた。「彩り」という曲の歌詞「なんてことのない作業が/回り回り回り回って/今僕の目の前の人の笑い顔を作っていく」は、自分の仕事のモチベーション下降期の魔法の言葉だ。また、推しが頑張る姿、試練にチャレンジする姿を見て「私も頑張らねば」と鼓舞することもある。自分と年が近いor年下の推しが増えてきたからだろうか、推しの活躍を自分と照らし合わせ、努力することの魅力を再確認し次の一歩を進むエネルギーを蓄えているような気がする。

「推し」とか「オタ活」はまだまだ色物のような、冷ややかな目を向けられるフレーズだと思う。しかし私は「推し」の存在が人々の活力・やる気・挑戦を促す可能性を感じている。特にこのご時世、不安定な日常に嫌気が差したり、人と感情を共有する機会も減り、先が見えず不安になることが多くなっている。そんなとき、「推し」という存在がいることによって、生活の彩りが生まれている人が少なくないのではないか。現にNHKの「あさイチ」では「推し」特集が定期的に取り上げられ、好評のようである。また、私の友人が最近宝塚にはまったのだが、以前より生き生きとしている印象がある。宝塚のことを話しているときはもちろん、他愛のない話をしていても、今を前向きに捉えていることが感じられる。

私自身も「推し」のパワーの恩恵を受けているので、なんとかしてこの威力を世の中にもっと価値あるものだと認めさせたい。経済効果だけではなく、「推す」ことにより個人の内発的動機づけにつながる可能性も感じている。学問的に説明することはできないけど、今一番「推し」を推したい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?