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大人の「現代文」61……なぜ『こころ』のポイントは「下 先生と遺書」か

二人の語り手

 

 前回からの続きです。
 というわけで、この『こころ』という小説、「語り手」が二人おりまして、三部構成の「上・中」では「私」という青年、「下」では先生生自身になります。そして、「上・中」では青年の立場から、先生が外から語られ、「下」では先生自身が自ら語る形になります。まあわかりやすく言えば、「上・中」では「普通の小説スタイル」で「下」では「私小説スタイル」になるわけです。

 そして、「上・中」では青年がいわば全面的に進行役を演じて、あたかも「準主人公」のように振る舞い先生に肉薄し、(すなわち)二人の関係性がある意味「准親友」関係のような濃密なものになっていくので、二人は同性愛関係かとまで論じられていますが、私に言わせれば、青年はいわば先生の「分身」なのであって、同性愛は当たりません。

 付言すると、この小説は「私たちの感性の根源にある『倫理』感覚とはどういうものか」という一種の「思想」小説であって、そもそも「思想」を真っ正面から取り上げる小説概念自体が、日本では乏しい(と私は思っています)ので、「同性愛」という「わかりやすい理解」になるのだと思います。 

 で、話を戻します。青年の目を通して語られる先生と、先生自身が自分のことばで自分を語るのと、どちらがリアリティがあるかということです。青年の目を通せば、当然、青年の立場がポイントになるわけです。それはご紹介した教科書の梗概にあるように、先生の心の秘密、すなわち「思想」(教科書では「陰影」という文学的表現ですが)の秘密への肉薄でありそれ以上のものではありません。それに対して先生のことばは、その青年の肉薄への回答という形になるのです。ですから、「下 先生と遺書」が最重要ということになり、そのポイントが「倫理という思想」になるわけです。

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