#4 夢の家

柔らかな日差しが、高く聳える葉の隙間から漏れ出て、地面に模様を描いている。
細い足が軽やかに、獣道を行く。黒く長い尾が柔らかな藪の中にちらちらと揺らめくのを、少年の瞳は捕えた。思わず足を止めた。
竹藪が広い舗装された道路の片側に広がっている。その奥では初夏の風がそよぎ、辺りは溢れんばかりの涼やかな音色で包まれている。先は深い緑に包まれて見えない。
耳をすませば辛うじて聞こえる、ちりんという澄んだ音に誘われて、少年は竹林の奥へと歩みを進めた。

木陰に入れば、微かに汗ばんだ肌がひんやりと冷やされる。
しなやかにカーブを描いた黒い尾と鈴の音を、少年は距離を保ったまま追った。

気づけば竹林は途絶え、見上げれば幾分背の低い木々が広い葉を空に広げていた。土の匂いがほのかに強くなり、鳥たちの声がこだまとなって少年の鼓膜を震わせていた。

どれくらい歩いてきたのだろう、やっと開けた場所に出た時、音の主が陽の中に身を晒した。びろうどのような毛並みが、光を受けて青白く輝く。首に巻かれた藍色のリボンが鮮やかだ。思わずため息が出るような美しさを湛えた黒猫は、そこで足を止めた。
少年も釣られて止まり、小さな案内人がじっと見つめる先を見やると、自然に埋もれるように家が建っていた。

深い焦茶の木造の二階建てで、屋根は暗い緑。遠くに銀の煙突が見える。
家を囲むように紫陽花が咲き、青や紫のがくで家を彩っている。
宝石のような緑の目が、初めて少年の方をちらりと向いた。尻尾がぱたんと動く。
君なら良いよ。
こちらに向かって開いた上品な赤の扉の中へ、黒猫は身を滑り込ませた。

少年がおそるおそる戸を開くと、ふわりと木の香りが漂った。玄関の先に廊下が伸びている。向かって右には階段があり、左には木枠に縁取られた空間が広がっている。
玄関の右側には外見と同じ色の靴箱があり、左側には丸いスチールラックの黒い傘立てが立っている。中には黒地に大柄の椿柄、屋根の色と揃いの緑一色、紺の傘。
ふと視線を落とせば、小上がりに置かれたラグに、少年に合うサイズのスリッパが揃っている。彼を待っていたかのように。
怖くないと言えば嘘になる。だが溢れる好奇心と、あの黒猫が入って行ったのだから大丈夫なのだろうという不思議な安心感が背中を押し、少年は靴を揃えて屋内へと上がる。

一階の空間へ進めば、窓に囲まれたリビングが現れた。抽象画が壁にかかっており、白いソファが壁際に配置されている。ソファの両端にはエスニック柄のクッション。その前に置かれた背の低い丸テーブルの上で、ガラスの花瓶にさされた紫陽花が、空間にささやかな華やぎを添える。隅には少年を越すほどの高さを持つ観葉植物がひそみ、棚と並ぶ。

奥は食卓になっているようで、四つ足のテーブルとカウンターキッチンが見える。
柱に溶け込むような焦茶色の四角いテーブル上には濃紺のクロスが敷かれ、角に丸みを帯びた木造の椅子がそれらを囲むよう、四つばかり鎮座している。中央の籠に、桃や夏みかんが盛られている。
カウンターで隔てられたキッチンの入り口にはすだれがかかっており、黒猫を探す少年は立ち入った。
ガスコンロは2つあり、片方の上には銀のケトルが乗っている。換気扇の下にはフライパンやトングがかけられており、奥の壁際には瓶に詰められた調味料が並ぶ。近づけば、ふわっとスパイスのような香りが漂った。
手入れの行き届いたシンクにも、戸棚の中にも黒猫はいない。どこに行ったのだろう。どうやらこの場所にはいないようだと分かると、少年は次の場所に移ることを決めた。

初めてくる場所なのは間違いないが、どこか懐かしいような雰囲気だ。静かで、緩やかな時間が流れている。
澄んだ池の底のような場所だ、三日月の浮かぶ月夜に、誰にも知られず密やかに泳ぐ魚が住むところ。

階段の上からちりんという音を聞いた気がして、少年は2階へ上がる。
階段に面した壁は本棚になっており、様々な表紙が並んでいる。
一階に近い低い段には日本語や海外の言語で書かれた大きな絵本がそれぞれ優しい夢を語りかける。中段にはえんじや褐色の古びた本たちが身を寄せあい、空いた段には陶器の置物やアンティーク調の小物が置かれている。天井から下がるクリーム色の電球に柔らかく照らされ、歩
いていると古い紙の甘い匂いが身を包む。

踊り場で曲がると、廊下に突き当たった。
右側にはドアが2つ縦に並ぶ。
本来ベランダがあるような位置、ドアのある壁の正面に出っ張った箇所があることに目が惹かれる。階段を上り切り近づいてみると、大きな窓を挟むようにして壁が突き出していた。
壁を渡すように木の板が挟まった形の机があり、手前には座り心地の良さそうな椅子が鎮座している。椅子の背にはタータン柄の柔らかそうな毛布がかかる。
深皿をひっくり返したような形、紺色の傘を持つ小さなランプが吊り下がっており、橙がかった光が空間を特別に仕立て上げている。
机の両脇の壁は棚になっており、数冊の本と鯨の模型が飾られている。
少年が椅子をそっと引いて座れば、すぐ家の主のお気に入りの場所だとわかった。白のレースカーテンが両脇に束ねられた窓からは、林とその奥へ広がる街の景色、青空と半ばとけ合ったかすかな水平線が一望できる。しばし時間を忘れ、少年は窓の外を眺めた。誰からも忘れられた古い灯台から見える風景も、きっとこんな風だろう、少年は思う。
机の上には開かれた革張りの本、万年筆が置かれている。その中はきっと、家の主の世界が閉じ込められている。開けば、表紙を隔てて真空に閉じ込められた静謐な世界をこぼしてしまいそうで、少年は本には触れなかった。

キィ、と戸が開く音がして、少年は我に帰った。ふと振り返れば、奥側の扉が少し開いている。黒猫だろうか。
ドア越しに小さなこぽこぽという音が聞こえる。椅子から腰を上げ、そっと中を伺う。
寝室のようだった。ベッド、机、ランプ。ランプは手の込んだ調度品のようで、ガラスシェードに細かな彫刻が成されている。よく見ればそれは水中がモチーフのようで、水草や小魚が揺らぐ様が描かれている。揺蕩う。巡る。
天窓から照る光が白いシーツを浮かび上がらせる。
ベッドの脇には小さな水槽が置いてあり、そこでは大きなヒレを持つ青い魚が泳いでいる。入ってすぐ気になった音の元はここのようだ。光の角度により、その姿は微かに色が変わる。そのものが発光しているように、優雅に水中を舞っていた。
深い海の底のような部屋。少年は小さく息をする。水と香のような香り。
天井から差し込む陽光の下、あの清潔なベッドで昼寝をしたくなる誘惑に、少年は耐えた。首を横に振る。寝室にたむろしていても仕方がない。黒猫はいないのだし。

歩き疲れた少年は階段を下り、一階のソファに腰を下ろす。と、前から微かにこぽこぽと音がすることに気がつく。ついと前を向けば、正面にはまた水槽があった。先程は気が付かなかったのだ。
寝室にあったものより幾分大きなその中で、銀の魚が泳いでいる。鱗は細やかで、ヴェールのような見事な尾が水草と共に水流にそよいでいる。しばらく魅入ってしまう。

かちゃ。キッチンの方から物音がして、少年はパッとその方を見やった。カウンター越しにちらりと黒い紐のようなものを見た。
だが、簾をくぐって現れたのは、少年が想像していたような尻尾の主ではなかった。
すらりと背の高い人。長い黒髪は艶やかな緑のリボンで束ねられ、凛と伸びた背には藍色のショールがかかる。スッと通る鼻梁の下に、薄い唇が閉じられている。
その人物は、キッチンから少年の方へゆっくりと歩み寄る。足音は静かだが、一歩踏み出すたびに涼やかで硬質な音が鳴る──ちりん、ちりん。
思わず顔を上げれば、目が合った。大きな目はアーモンドのような形で、夜を飼っているような深い焦茶の瞳が、少年の姿を映した。ややあったあと、その人は少年に向かって微笑んだ。閉じていたつぼみがうっすらと花開くような笑み。
「どうぞ」
少年の前にカップが置かれる。
落ち着いたハスキーな声。明るい外と対照的な夜の底のような声が、少年の鼓膜を震わせた。
家の主らしいその人物の視線に入っている気恥ずかしさを誤魔化すように、少年は琥珀色の液体を喉に流し込んだ。渋みは控えめで、爽やかな香りを湛える紅茶だ。冷たく冷やされた茶は、探検を終えて火照った体を落ち着かせる。
一口飲んで息をつけば、家の主らしき人は少年の隣に腰を下ろし、同じようにカップを傾けていた。

この家の主に聞きたい言葉は山ほどあった。いつからこの家があるのか、一人で住んでいるのか、何をして生きているのか、性別は何なのか、魚が好きなのか。ただその彫像のような横顔は、問われることを拒んでいるようにも、その存在が全てを説明しているようにも見えた。何より謎めいたその姿は、それだけで完結していた。
水槽のパイプが酸素を吐き出す音が響く。外からは微かな草木の揺れる音。この世には心地よい沈黙もあるのだと、少年は知った。ただ視線の先で水中を舞う銀の魚をしばし眺めていた。

水槽を見つめるうちに、少年は穏やかな浮遊感が体を包むような感覚に陥った。時間も外の世界も遠ざかり、心地よい絹のシーツに包まれているような。自分がずっと昔、元いたところに戻ったような安堵と懐かしさ。尾びれの揺らめきにあやされるように、少年は目を閉じた。

どれくらい時が経ったのだろう、ふと気づけば日が傾き、光は徐々に橙を帯び始めている。
帰らなきゃ、少年はゆっくり立ち上がった。
「お茶、ご馳走様でした」
ソーサーを持ち上げ、カウンターへ持って行こうとした少年を、白い手が制す。
「お客様はそんなことしなくていいの」
家の主はいつの間に手に持っていた本を、そっと机の上に置く。一つ一つの所作はしなやかで、憂いを帯びたような長い睫毛が頬に影を落としていた。

家主は少年が玄関から外に出るまで見送った。
戸を開ければ夏を控えた外の空気がなだれ込み、少年は我に帰った。夢と現実の境目に立たされているようなおぼつかなさと、帰るべき場所を急速に意識した。靴を引っ掛けたまま、足早に去ろうとする。ぬるい風が少年の背を押す。
夜になればこの家は、それは美しい顔を見せるだろう。深い色、木造の建物が宵に紛れ、温かい白熱灯の光が内から漏れ出す様が頭をよぎる。澄んだ空気が紛れた部屋の匂い、怪しげなライトが煌めかせる魚の鱗。しかし、そこは少年の帰る場所ではなかった。それはその家主のものでしかないものだ。
五歩ほど歩いたところで、後ろから声がかかる。
「気をつけてね、またおいで」
つい振り返ると、家主は少年にひらひらと手を振っていた。その目が一瞬緑に輝いたように感じ、少年はぱちくりと瞬きをする。
少年のその表情に、家主はいたずらっぽく笑って、すっと人差し指を唇の前に立てた。そしてくるりと振り返り、そのまま家の中へ去っていく。ショールが翻って、鈴の音と共に、戸の中にするりと入っていった。

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