2020/06/13

起きた。今朝は野菜カレー。そしてこのカレー食によって、ついに2棟めのレトルトカレータワーが消滅した。感慨深い。いや、それほどでもないか……。歯磨き粉のように使い尽くすのに時間のかかる日用品を使い尽くすのには達成感がある。ところが、これがハンドソープとかだと、自分の感性では達成感を感じられない。それを踏まえて、レトルトカレータワーの食べ尽くしは「どちらかといえば達成感がある」の区分となるだろう。

昨日のデフノートの末尾にお願いした件について、コメント・メッセージなどお寄せいただき、ありがとうございます。すべて読ませていただき、個別にお返事させていただきました。今日のデフノートは以下、それに対してあらためて私が考えたことを、総括的なお返事として書かせて頂こうと思います。そういう文書の性格上、今日はこの段落以下を、ですます調で書かせていただきたく思います。

話の流れを明確にするために、昨日のデフノートへのリンクを貼りました。クォータニオン(という15年ほど完成しない自作ゲームをどうやって開発していくか)問題という難問について、みなさんから新鮮な声をお寄せいただきました。それらをもとに、次は自分が考えて答えを出す番です。今日1日をもっぱらこのことを考えて過ごしました。思考が中断したのは、昼に宅配便を受け取ったときと、夜に家族と外食に出たときだけです。

まず、クォータニオンプレイヤーの皆様におかれましては「この際、30年くらいかかってもいいんじゃないか」など、時間感覚が盆栽の生育を見守る域に達していらっしゃる方が複数名いらっしゃいまして、私が長く開発をお待たせした末に、ある種の悟りを開かせてしまったのではないかと恐縮するばかりです。

だからといって、私がそれだけの猶予に甘えていいということにはならないと思いますし、いわゆる沈黙する多数に「もう待てませんよ」という声があっても決しておかしくはないと思います。申し訳ないです。いつもこうした「聞こえてこない声」を想像して怯えていました。

見栄もありました。一般に自作ゲームは完成しないことが非常に多いという認識はあり、だからこそ「自分のゲームは特別で、そうではないんだ」と特に根拠はなくムキになり、思い込んできたところもあります。私の1つめの執着は「黙って去ってしまった人たちの期待にも応えたい」ということでした。

しかし、それは自分の身に余ることでした。これに応えようとしてたびたび大きすぎる目標を立てては、その1割も叶わないまま期限を迎え、無理で体を壊したり、自己嫌悪に陥ったりを繰り返していました。1人開発をしていた中期(2010年〜2014年)の頃のことです。

ところで、いつか同じくらいの時期に自作小説を書いていたときのことです。「これを書き終えたら、5部印刷して文庫本を自作して、これまで読んでfavをくれた全世界推定5人の読者たちに送りたい」というようなことを申し上げたことがあったと思います。

今の自分の気持ちは、結局これなのだと思いました。「このゲームを作り終えたら、クォータニオンのゲームパッケージを5部だけ制作して、全世界推定5人のプレイヤーたちに送りたい」 です。これが自分の本当にやりたかったことなのではないでしょうか。これ以上のものを求めるから、かえって身動きが取れなくなっていたのではないでしょうか。

さて、みなさまからお寄せいただいた声の中に、クォータニオンというゲームタイトルそのものに対してよりも「でふさんが作りたいものを」であるとか「でふさんが思う通りに」であるとか、そういう私個人に対する関心や激励を多くいただきました。大変ありがたいことです。

こうした中で気づいたことがあります。私の2つめの執着は「クォータニオンは名作でなくてはならない」です。1つめの執着とカブっている部分もありますけど、より掘り下げてお話しさせてください。

私はこう考えていました。(例え5人だけにお届けするゲームであったとしても)それは自分の多大な自己犠牲の上にできた名作でなければならない。だから、自分はこうでないといけないし、自分はこうやらないといけない……。制約による追い込みで自分を律した先に、残ったものが万能であるという方向でずっと考えてきました。

ですが、そうした方向で考えていった結果、果てのない完全な準備が整うまで動けずにいる自分を発見したのです。自分の素・本能・エゴ、そうしたものたちの力を借りずに理性だけでゲームという作品は作れないのではないでしょうか。

例えばこのデフノートも、日に100人くらいが目を通してくださっていて、またどうやら必ず読んでくれる5人くらいの方がいらっしゃるようで、その読者5人のために書き続けていられるわけですけど(ありがとうございます)じゃあ、5人のために最高の名文を書こう、などという動機でデフノートを書いてはいなくて、僕は僕で思った通りのことを自然に書いているつもりが、なぜか妙に5人のツボに入ってしまっている、からこそ良い関係ができているのかなと。

そう考えると、クォータニオンも、開発初期(2005年〜2009年)においては「このゲームなんかやりすぎな気がするんだけど妙に気になる」みたいな謎の存在感であるとか、ゲームシステムが根幹から変わるような謎のアップデートパッチを1ヶ月に1度の頻度で連発するであるとか、名作というよりは迷作・怪作・疑問作の雰囲気で売っており、その勢いが一部のプレイヤーにバカ受けして、結果として15年後にも全世界推定5人のプレイヤーとの良い関係を残すことができたのでは、とも思うわけです。

そういう流れを無視して、私は「これだけの長い時間と労力をかけたのだから、何か客観的に(?)素晴らしいものであるはずなんだし、それを目指しているのだ」といって、自分一人で開発する際のモチベーション、精神的な支えにしてきた面もありました。あるいは、世の成功したとされる同人ゲーム(あるいはインディゲーム)たちへの嫉妬や羨望が、私を狂わせていたのかもしれません。そうです、私は見失っていました。

クォータニオンはもともとそういう、エリートとして生まれた子ではなかったのです。私がやってきたことは、世に時々現れる悲劇「子の進路を強迫的にコントロールしようとする酷い親」そのものでした。あるいは存在もしない名作の影に、私がコントロールされていたのかもしれません。

僕の正体である「ふぐあんこう」というキャラクターについて、私がたびたび申し上げてきたことがありました。「自分でもよくわからないアイコンを使っているなと思ってるんですけど、100人に1人くらい凄まじく気にいってくれる方がいるので、ずっとこれでやっています

昨日、私にメッセージをくださった方々は、やはり気づいておられたのではないでしょうか。クォータニオンというゲームは、僕の個性の像であって、「ゲームを含んだ僕の営み、これを素でやってるおかしさ・ギャップ、自分のゲームの攻略本を自分で作って配布するようなところ」そういうものをみんな含んだ「クォータニオン活動(クォ活)」があるから、また結果としてクォータニオンも楽しいのではないでしょうか。

例えば、僕は「自分でもよくわからないゲームを使ってるなと思ってるんですけど、100人に1人くらい凄まじく気にいってくれる方がいるので、15年くらい作っています」と自分を笑い飛ばせるほど、私のアツいクォータニオン活動、クォ活をやっているでしょうか。

以上です。こういうことを考えました。

その上で、私の抱えていた2つの執着を超えた先にあるクォータニオンとは、次のようなものになるでしょう。「自分でもよくわからないのだけど、自分が遊んだら面白いだろうなというゲームを20年くらい作っていたら、全世界推定5人のプレイヤーにバカ受けしてる

これでいきましょうよ、これで。

- 英単語 1000 words
- 数学の問題を解く (2/-/-/-)
- ヒザ曲げ立位体前屈 3min
- 睡眠 3-11.5 (8.5h)

ゲームつくるための動機付け(why)はできたので、明日からは立ち上げる習慣(how)の話をしましょう。スッキリしました。コメントくださった方、本当にありがとうございます。また人生のうちで忘れられない日が増えました。

(2020/06/14 へ続く)

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