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「エモさ」は、けっこう難しい。

10月25日(日)に、ブレッドボード主宰「俺の話(専門)を聞けェ!」で、僕の関心について話しました。即興で話すネタをつくったのですが、ちょっと伝わりにくかったかな・・・と思い、こちらでまとめてみました。

ちなみに、当日のスライドはこちらになります。もしご興味あればダウンロードしてみてください。

「エモさ」を再定義する

まず、「エモさ」をつくる技術について考えなおしました。プレゼンでは、「『エモさ』とは、感情を大切にすることである」と定義しました。

ですが、ちょっとこの定義は、定義になっていないと思いました。というのも、「大切にする『行為』」が「エモさという『性質』」と定義するのは、わかりにくいからです。ちょっと、慌てすぎていた・・・

さて、あらためて「エモさ」を定義するとしたらこのようなものでしょうか。

「エモさ」とは、未来のための想像力のひとつである。

うーん、ちょっと思い切りすぎたか。でも、「想像力」として定義することは、それなりにうまくいっていると思っています。というのも、「想像力」とは、「『今ここにない』ことと、『今ここ』をつなげる力」だからです。例えば、僕らは「ああ、カナダの大自然のなかでゆっくりと読書できればいいのに!」と想像します。これは、「『今ここ』にいる自分」ーーそしておそらく自然で癒される必要のあるくらい疲れているのだろうーーと、「今ここにいない、カナダの大自然のなかでゆっくりと読書をしている自分」とを、つなげているのです。この言葉は、「カナダに行きたい」という希望を言っているというより、「今まさに疲れている自分」を認識し、それを嘆いているのです。

しかし、こうした想像には、ある意味が含まれています。その意味とは、今いる自分から距離を置き、自分にとって大切なことを見出す=創造することが含まれていいるのです。こののことについて、僕の盟友である谷川嘉浩さんは以下のように述べています。

 では、なぜロマン主義者たちが、想像力を理性に対して優位に立たせることができたのだろうか。この疑問に答えなければ、「ロマン主義が想像力を大切にしたらしい」という単にトリビアルな情報を提供する役割しか、このコラムは果たせていないことになる。 想像力が大切だという発想が魅力を持って流通したのは、ロマン主義者が、「想像力」という観念と「創造性」を結びつけたからだ。詩人たち(特に先に名前を挙げたコールリッジ)は、当時の心理学や哲学が展開していた議論の影響を受けながら、想像力という概念そのものを時代に合わせてデザインし直した。
 コールリッジは、よく「科学者の眼」と「詩人の眼」を対比した。前者は、事実をそのまま見るので何も付け足さないが、詩人は何かを付加している。この科学者観、詩人観は大いに問題があるくらい素朴だが、少なくとも、このエピソードを通じて「創造性」のニュアンスは掴めるだろう。想像力によって、「そこにない何か」が生み出され、現実と結び付けられているのである。

たしかに、「今ここにいる」僕は、カナダにいない。でも、「カナダに行きたい」ということが、わかる。さらに、「自然のなかで本を読みたい」ということも、わかる。もっといえば、「この場から離れて、休養したい」ということも、わかる。「想像力」は、「今ここ」にいる自分から離れて、「今ここにいない」かもしれない自分をつくりうる。そして、それはまさに「未来のため」にあるものなのです。未来にむかって歩む、僕自身のためのお守りなのです。「エモさ」とは、このようなお守りづくりなのかなと思います。余談ですが、この「カナダの大自然のなかでゆっくり読書したい」のは、もちろん僕の想像です。

「エモさ」をつくる技術

さて、この「お守り」としての「エモさ」は、とっても大切なものです。というのも、この「お守り」は自分自身を守ってくれるからです。でも、「お守り」は、きちんとご利益があってこそ。でも、このご利益というもの、きちんと願わないといけないんです。否、きちんと努力しなければ、その「お守り」は助けてくれない。だからこそ、努力が大切なのです。

「エモさ」というお守りは、どのような努力でその力が発揮されるのでしょうか。それは、自己省察(self-reflection)によって可能になります。「自己省察」とは、「自分の感じたこと、思ったことを言葉にすること」です。それは、自らの記憶をもう一度呼びおこすだけではありません。自分はどのように感じ、考えたのか、その物語を認識することになります。自分はどのような存在なのか、どのような生き方をしてきて、どのようなことに苦しんでいるのか。「エモさ」というお守りは、このような自己省察のはてに得られるものです。

このことは、「自伝的エスノグラフィー」(autoethnography)の基本的な考え方となっています。「自伝的エスノグラフィー」とは、自己省察の中で、自己自身の苦しみを社会的な文脈の中から解釈していく作業です。社会的な文脈で解釈することは、自己の苦しみを他の物語とつなげて理解し、深めることです。このことについて、「自伝的エスノグラフィー」の代表的研究者であるトニ・E・アダムズ、ステーシー・ホルマン・ジョーンズ、キャロライン・エリス(Tony E. Adams, Stacy Holman Jones, Carolyn Ellis)らは、以下のように述べます。

自伝的エスノグラフィーの書き手は、「調査者の『自己』(selves)と『他者』(others)の間の関係のトラブル」への反省を用いる。省察的であることとは、「文化と学術における自己の立ち位置を重要に取りあげること」を意味している。省察とは、私たちの経験、アイデンティティ、関係への立ち戻りで構成されている。そのことは、いかにしてそれらの構成要素が私たちの現在の活動に影響を与えているのかを考えるためのものである。また、省察は私たちに権力との関係で私たちのリサーチを正確に認識するよう語りかける。バーナデッテ・カラフェル(Bernadette Calafell)が説明するところによると、反省は「体験(lived experience)と誰かの統制(control)、矛盾(contradiction)、特権(privilege)における猶予(space)あるいは意味合い(implication)の詳細を技巧と手工を凝らし再創造することを意味している」のである。
(Adams, Jones, Ellis, "Autoethnography: Understanding Qualitative Research", 2015,  p.29)

「自伝的エスノグラフィー」は、自己の語りを構想しなおします。この作業は、「かつていた自己」をもう一度現前させることです。このことで、「今ここ」「かつて」を連続的に位置づけていくことを可能とします。その中で、「エモさ」は、きちんとした意味を持つようになります。そう、未来を構想する道具となるのです。「自己省察」は、このようなきっかけをつくるものなのです。

「エモさ」は、「自己省察」という技術で成り立ちます。過去のふりかえり、自己の思い・感情などの経験の言語化、社会的な文脈への配置、そして経験の解釈・再創造・・・この過程は「エモさ」を紡ぐ技術となるでしょう。その中から、「今ここにいない」を創造しうるのです。「エモさ」とは、未踏峯を歩く作業に他ならないのです。

「エモさ」は、結構難しい。

それゆえ、「エモさ」とは、「耳障りのよい言葉」というわけではありません。「耳障りのよい言葉」であるのは、あくまで自己省察の帰結にすぎないのです。自己省察の果てに「自分の考え、思い」が結晶したもの、それが「エモさ」なのです。とても、難しい作業なのです。

ただ、「耳障りのよい言葉」であることと、「自己の考え・思いの結晶としての言葉」は、表面上では見分けがつかないのも事実です。また、「これが私の『言葉の結晶』だ!」と思っても、実はまだ道半ばであることもしばしばです。それでいて、「いい言葉だ」と肯定されたら、言葉を深める機会も失われてしまう。本当に難しい作業です。

だからこそ、「この言葉が最終的な言葉だ」と決めつけずに、きちんとずっと自分の考え・思いに向きあいつづけること、これがとても大切です。この態度を持ちつづけることは、表面上の「エモさ」から離れるためにも必要です。また、取り繕った言葉で誤魔化している人にも気づけるでしょう。一つひとつ、丁寧に、言葉を紡ぐ。この作業はとても大変です。でも、そこで得られる言葉は、「あなただけの言葉」になると、僕は信じています。

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