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身体知から気付く自然・いのちのつながり|インタビュー: 舞道家 柳元美香さん

Deep Care Labがお届けする、サスティナブルな未来をひらくクリエイティブマガジン『WONDER』では、持続可能性につながるビジネスやプロジェクト、気候危機時代の生き方のヒントになる創造的な実践や活動をされている方にお話を聞くインタビューシリーズを連載しています。

今回は、自然に根ざした日本古来の心を基軸として舞う「舞の道 観音舞」の家元である柳元美香さんにお話を伺いました。

今回のインタビューのお相手

プロフィール2

柳元 美香(やなぎもと みか)

舞道家

澄んだ空の音 心地よい風
季節のうつろいや月の満ち欠けを胸に響かせながら
全国各地にて舞の分かち合いを開催しています。

できるできない、そんな二極を超えて、身体と心が心地よく、いのちが謳うように舞う。
そのことを大切に日々の暮らしの中で、自然に学びながら舞を育んでいます。

舞の道 観音舞を主宰。

観音舞ホームページ:https://mainomichi.com/

【観音舞】− 靜 Shizuki −

直感を信じて辿りついた観音舞

ーー今日はどうぞよろしくお願いいたします。はじめに自己紹介をお願いします。

そうですね。舞うように生きて、舞うことを生きることとしています。

自分の自己紹介ってそれくらいです(笑)。

実は舞を職業にしようと思ったことはなくて、本当に導かれてここにいる感覚です。「舞の道 観音舞を主宰しております柳元美香と申します」という文言もさらっと答えられるようにはしているんですけれど、代表をしているというのもいまだに言葉が浮いてしまう感じがしています。

この道に入ったきっかけは、不思議な話なのですが、留学から帰国したときに、子供の頃からお世話になっている自分のお父さんのような方から「あなたは舞う人です」と言われて、素直に「はい」と答えたことなんです。もともと踊ることは好きでやっていたんですが、改めて何を舞おうか考えたときに、せっかくやるなら私の体に流れる血で踊れるものがいいと思いました。でもお能や日本舞踊は文化的に新しい感じがして、もっと日本の太古の舞はないだろうかと探しているときに、ある創作舞踊家さんの舞台にものすごく感動して、打ち上げ会場に潜り込んで弟子入りをお願いしたんです。

先生のお師匠様が古式の巫女舞の98代目のお家元で、お二方から日本の古文書や古い舞、体を動かすときの意識の持ち方、体の立たせ方、歩くことなどの表現の源も含めてみっちりと教えていただきました。

でも師匠について学んだのは意外と短くて3年間。日本文化の根底やその深い奥行きを見せてくださる方々で一生ついていきたいと思っていたのですが、「もう私はここにはいれられない」と直感的に思う瞬間があって離れることにしたんです。


ーー本当に導かれるようにこの道に入られたんですね。師匠から離れたあと、観音舞にたどりつくまではどういう経緯だったのですか。

先生から離れることを決めたものの、「まだ習いたい」「受け取りたい」という感覚がすごく強かったんです。でも私が教わりたい叡智は、教えの中にしかないものではなく、常に雨のように降り続けていてそこに私が意識を向けるかどうかの問題だと気づいた瞬間がありました。

そのあとで沖縄に行く機会があって。これもまた不思議なお話なのですが、小さな島に行ったときに「あなた、舞い手ね」って写真を渡されたんです。神様の声を聞く島の子供が降ろした5つの舞の型の写真で、型は降ろしたもののそれらを組み合わせて舞にできる人が誰もいなくて、写真だけ残されていたそうです。それを受け取った時にするするするーっと全部つながって、なんの淀みも躊躇もなく順番に並べて、立ち上がって踊ることができて…。

その舞を受け取ってから、舞を教えてほしいという人がたくさん私のところに来てくださるようになりました。でも私は人に教えたことがないし、そういうのは避けたいと思って躊躇していたんです。でも「あなたは自分がもらったパンを一人で食べる気なのか」というインスピレーションがふっと降りてきたのをきっかけに、私がいただいたありがたいものを自分ができる範囲でただただ真摯にまっすぐに渡していこうと決心することができました。そこからは”教える”というよりは”分かち合う”フェーズに入ったように思います。

そうしたら「あなたは舞う人です」って言ってくださった方が、「これからは美香ちゃんは自然を師匠にしていくんだよ」っておっしゃったんです。

それからは、葉っぱがどういうふうに風で揺れるのか見たり、風を読んだり、葉っぱが当たっている風に自分が触れたらどんな心地がするか想像したり、蟻の視点で考えてみたり、ありとあらゆることを毎日繰り返しました。その中で、自然の理が自分の中に芽生えてきたんです。本来は私も自然の一部なので、自然から教わったというよりは響きあって自然と発露された感覚に近いですが、それに体を乗せていったのものが舞になり、舞を見た人が「観音様みたいだね」と言ってくれて。

それがきっかけで私の舞は「観音舞」になりました。

ーー観音舞の名前はご自身で名付けたのではなく、舞をご覧になったかたが名付けたものなのですね。

(舞に)名前をつけるということにとても抵抗があったんです。でも求められて舞うときに、舞の名を尋ねられて「なにもないです」と答えると「柳元美香さん」って名前で紹介されて、それも違和感があったんですよね。師匠も含めてつないできた道の一部に私がいる。決して私が生み出したものでも私が作っているものでもない感覚だったので、最初「舞の道」と名付けました。そのあとで「観音舞」と言っていただいたら不思議とそちらが歩き出したんです。

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祈り(意乗り)の舞に込める想いと身体感覚

ーー観音舞のベースは先ほどおっしゃっていた沖縄の小さい島で神様がくれた舞ですよね。それは師匠から教えを受けた巫女舞とは違うものなのですか。

古式の巫女舞は究極的な型の世界なんです。見た目も堅いし、直角とか、水平とか、シンプルな動きで構成されています。だからこそ、どんなリズムにも合わせられるし、すべての音の幅を間合い、つなぐことができる。

たとえばのイメージで、坐骨の2点を下におろしていって、大地の中心まで突き刺す。反対に背骨と頸椎と頭頂はそのまま天までつなげてみる。そして手を地平とつなげていって、自分の中で天土(あまつち)を見立てるようにすると、実は体はそんなに自由に動けなくて、自ずとさまざまな角度が決まっていきます。顔の向きは上45度、水平、下45度のようにすごく厳密ですし、自分を中心点に置いて国を守るように踊るんですが、そのための足運びや角度も決まっています。巫女舞は無駄なことはしません。しないからこそ大きなところにつながっていくことができるんです。

ーーなるほど。大きいものにつながる目的があるがゆえに、ある程度動作が決まってくるのが巫女舞なのですね。一方で観音舞はどうでしょうか。ホームページを拝見すると「祈り」と掲げられていますが、大いなるものとつながるところは巫女舞と同じなのでしょうか。

そうですね。つながるを超えてそのものになりたい、というのが観音舞です。「祈り」って「意乗り」とも書くんですけれど、私は“舞とは意を乗せること”だと思っています。自分が普段どこに意識を置いているか、何に祈って(意乗って)生きているのかが大事。さらに、意を乗せる感覚すら超えてそのものになるというのは、自然が私たちにくれてるものをそのまま返すあり方だと考えています。

芸術というのは意を乗せて行う一番ピュアなもので、何かのためではなく純粋に自分のいのちを発露させている状態です。それは道に咲いている花や木と同じ状態だと思うんです。私の中では「祈り」も「舞」も境がありません。自分が踊っていなくても細胞たちはそれぞれのいのちを発露させて踊っている。いのちは間合い、めぐるもの。太陽やほかの星々とも影響し合っている。宇宙って現代人には漠然としたものだと思われがちですが、とてもクリアだと思うんです。明瞭だし明確。在るものが在る。その感覚をわかちあうためのある種のツールが舞なんです。


ーー「祈り」とは意を乗せること。なるほど、そう考えたことはなかったです。観音舞は自然そのものになる感覚なんですね。舞っているときのその感覚や状態をもう少し教えていただけますか。

踊っているときはものすごく集中している独特な感覚で、舞ったあとになにを踊ったか伝えるときには口が勝手に説明するんです。それを自分で聞きながら「あぁ、さっきのはそういう意味だったんだ!」と気付く。十数年舞っている舞でも、説明をするたびに新しくわかることもあって、私もいまだに受け取り側なんです。やっぱりそういう意味でも私の場合は教えるではなく分かち合ってる感じですね。

舞っている時はそのものになりきって、主観も客観も一体となりすぎていて記憶がないこともあります。でもこの道を歩む中で、ものすごく集中するけれど伝えるための意識も残して主観と客観を組み合わせながら舞うことを覚えた気がします。

頭を使うでもない感じで感覚で紡ぐ、でも紡いでる以上は頭も使っている。どっちともつかないような感覚で舞っているつもりです。


ーー舞っているときは、自分自身はうつわのようにただただ受け取りながら踊って、それをあとからこうだったと喋る中で再解釈が行われているんですね。自然のあり方を見て受け取ったものを舞の表現として昇華する感じでしょうか。

私たちはそもそも五感をいただいて生まれているので、いただいたものを遺憾なく使うということが自分のベースにあります。なので、視覚だけでなくいろいろな感覚を使って自然を感じるようにしていて、たとえば枝の匂いを嗅いだりもします。

あと、空間幅を大事にしています。たとえば壁は目線の空間幅がすごく短いですが、空はすごく幅がある。その近いものと遠いものあいだに有機物と無機物がありますよね。自分のまなざしが物体に触れたときの心の手触りみたいなものを丁寧に聞いていくんです。マンションに立っている避雷針とか、何かの突端に意識をフォーカスすると、すごく鋭利な感じがしますが、そこから空に意識をテイクオフしていくと、やわらかくなる。この違いを丁寧にみていきます。

景色や、自然からいただいたものの心の感触を所作としてアウトプットしてみる、アウトプットしてその感触をまた観る、そうやって自然や世界すべてを感じたい。自然がこの世界をつくる源になっているので、その源とことわりを知るとすべてに通ずるものがあるんです。

【観音舞】− 天地 あまつち −


ーー自然と聞いてイメージする木、植物、風だけではなく、私たちが造りだしてきた都市や人工物も同じように感じ取ってアウトプットすることもありますか。

表現することはあまりないのですが、人工物を感じることでより自然のエネルギーが際立ってくるのは感じます。いろんな周波数帯というかエネルギーがあるからこそ、自然の美しさがまた際立つ。やっぱり人工物とは心の手触りがまったく違うんですよね。自然に触れたときのあたたかさとか澄んだ感じとかはもう本当に次元が違う。でも、私のまなざしで見た世界のすべてを自分の中に写したい、という欲求があるので、人工物もないものにはしない。そういう感じです。


ーー同じものを見たときの感じ方も人それぞれですし、アウトプットもそもそもの感じ方が違ったら人それぞれのものになると思うのですが、お稽古で分かち合いをしている舞手の方々はまずは柳元さんに合わせて所作をされるんでしょうか。

おっしゃるとおりで、感じ方がまったく違うから、出方は違って当然なんですよね。守破離(しゅはり)という修行における段階を表す言葉がありますけれども、観音舞では実は逆転していて、守からではなくまず離からやっています。というのも、社会に生きていたら型にはまることを覚えすぎて、出すことを忘れてしまうんですよね。なので、まず自由に水の流れを舞ってみたり、自分から自然と放たれるものを聞いたり、体の動きを感じたりするところから感触をひとつひとつ知覚していくところからやっていきます。それができれば自分のことを使えるようになりますから。そこから少しずつエネルギーを整えていって、自由な発露を今度は型の中に注いでいくんです。

型には力があるんですよ。アイヌとかケルトの民族が文様を扱うみたいに、型とか文様はエネルギーを固形化させたものなのでパワフルなんですよね。型の模倣と、自分が水だったらこう舞いたいと自由に出すこと、両方のバランスを大事にしています。

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身体知からつながりを意識する

ーーなるほど。離から入り守を知るんですね。まずは普段流してしまう自分の感覚を知覚し発露させることを覚えて、そこから型に注ぎ込むという順番の方が、たしかに現代人には合っていそうです。お話から、生きることそのものが舞なのだと感じました。舞うときと普段の生活での感覚の違いはありますか。

舞っている感じで家事とかしてるわけではないです(笑)。でも体については常に注目してます。家事をしながら重心がどこにあるかスキャニングする感覚はずっと持ち続けていて。じゃないと、人間はすぐに首とか肩に重心が上がってくるんですよね。包丁を使うとか、階段を登るとかでも上がってしまうから、それを下げるだけで楽になるし、体の使いどころが中心に集まってパフォーマンスがよくなります。

体の使い方と、感覚や感情に対しては常に客観視している自分がいますね。怒りなどネガティブな感情が出てくるのも止めないでただ見る。ジャッジしない。体も感覚も常に観察し続けてている私の内在神のような存在をつくるんです。一方で舞ってる時はこの客観視している自分とつながって、ひとつになっていく感覚があります。


ーー日常生活でも自分を客観視するもう一人の自分を意識されているんですね。柳元さんのように、いのちは間合い、めぐるものだという感覚を体で知っていることは、これからの私たちに必要なあり方ではないかと感じています。舞っていない、型を持っていない私たちでもそのあり方に近づくことはできますか。

私からしたら、田島さんも川地さんも舞っているんです。Deep Care Labのコンセプトが「想像」というのがすごく響きました。想像って自分、他者、自然とつながる道になりえる。型がなくても舞を知らなくても、体、自分自身、いのちにも思いを馳せてみる。たとえばそれぞれの体のパーツが自分の中で噛み合って私という肉体を動かしていることを感じられると、自分はミニマムな宇宙だということが比喩とかでなくて体感として感じられると思います。

リラックスして丁寧に意識を向けて湧いてくるものを蔑ろにしない。自分の体の声や感覚は一日の中で溢れては流れ、溢れては流れというものだから、意識を向けているものが自分の外にあったり、外からの情報でいっぱいになっていると大事なものを見逃しやすい。だから自分に流れてくるものをつかんで、私は世界とつながっている、私は宇宙とつながっていると気づけたら、遠い地球のどこかの裏側とも肉体の中ともつながっている感覚になれます。

生きている時間は限られているので、生み出すエネルギーを苦しみとか悲しみとか過ぎてしまったこととかに使いたくはないですよね。自分から生み出したエネルギーを通じていろんなものとつながっていると思えるなら、私はそこに自分の”祈り”を使いたいと思うんです。

きっと誰でもできるようなことを私はやってるんだと思っています。難しいことはできないから。

ーー自分自身から湧いてくる声をないがしろにせず、そこから自分自身を動かしている様々なことに思いを馳せてみる。その想像力が大切なのだと感じました。ぜひお稽古にも参加してうかがったことを体感したいと思います。

今日はどうもありがとうございました。

【観音舞】Tao ーはじまりのうたー


おわりに

これまでインタビューを通じてお話を伺ってきた方々のメッセージから「身体知」というキーワードが自ずと浮かび上がっていました。さまざまないのちと自分たちが共にあることを、頭で理解するだけではなくまずは一回でも体で感じること、つながりを体感できたら自然と意識がケアの方向に向かう。そんなメッセージをこれまで受け取ってきたと感じており、次のインタビューは、自分の体を存分に使って自然を感じ表現しているかたにお話をおうかがいしたいと思って調べていた時に出会ったのが「舞の道 観音舞」。

ホームページに載っていたこの言葉にやられました。

舞は祈り
祈りという枠さえ超えて
純粋に輝く命そのもの

生命は謳い、宇宙は踊る
森羅万象のあらはれを身体へ映し、
ただただ、流れる水のように舞う

自然に根ざした日本古来の心を、
古木の幹のように、枝のように
この星に生きる生命の輝きを、美しさを、
舞で語り、紡ぎ、結ぶ

原点へと 向かう舞
はじまりへと 進む道

舞の道 観音舞ホームページより https://mainomichi.com/


自然そのものを自身の体に映しとり、そして舞として放つ。


これだ。


すぐにご連絡をさせていただき、インタビューに至りました。


さまざまなめぐりあわせの中に生き、型を知り、自然のことわりを見つめてきた柳元さんの言葉一つ一つは淀みがなくて、お話してくださっているときも重心を下に向け、自分の体や周囲の自然の声を聞きながら話をしてくださっているようでした。

すべてとつながり、すべてを間合う、うつわとしての体の奥深さ、
そして、体はすべて知っているし受け取っていて、その声に自分たちが耳を傾けられるかどうかが大切なのではないかと感じた時間でした。

自然が大切、自然を守ろう、共生しよう、サステナビリティ、SDGs・・・ 昨今の気候危機や社会のさまざまな問題を受けて発せられるいろいろな言説を私たちは頭で理解しようとします。でも、理性的に義務的に「やらねばならぬ」と意識を向けていくあり方自体の持続可能性はどれくらいなのでしょうか。
自然の一部である私たちの体は、つながりの中に自分たちが生かされていることをすでに感じているし知っている。その声に耳を傾ければ、自ずと持続可能なほうに行為が向かう。そういうものなのかもしれない、と改めて感じました。

Deep Care Labが大切にしているのは「あり方の変容」です。このインタビューがみなさんのあり方のヒントにもつながっていれば嬉しいです。

柳元さんのあり方に感化され、いつになく自分から湧いてくるものをそのままに言葉に乗せる感覚で「おわりに」を書きました。これも私にとっての舞でしょうか。

柳元さん、どうもありがとうございました。



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インタビュー中の風景
下段 柳元美香さん

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