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エピソード(13):自分の「気」を低くする工夫

西野流呼吸法を習うと、西野先生や指導員から繰り返し、「気を上げない」とか「気持ちは丹田に置いたまま」と指導を受ける。
 
「気が上がる」とか「上気する」など、もちろん現代語でも使用する。
あるいは「人前で上がる」という言葉の「上がる」という表現もある。
あるいは「頭に血が登る」という言葉もある。
 
「上方向に自分の気が移動する」のは一般によく実感されることのようだ。
問題は、ほっておくと昇りやすい「気(イメージ?)」を、一体どうコントロールするのか?またまた「不思議」なというべき工夫である。
 

若い人の気は本当に高い。
西野流呼吸法を習い始めた頃、もう中年であった私も、なお、気のバランスは高かった。
 
一度、西野先生との対気で、おそらく私の気が高かったのか、頭から後に倒れたのを覚えている。
不思議なことに「ゴーン」という音と感覚はあったが、痛くなかった。
結局、タンコブ(皮下血腫)はできなかった。不思議!
 

この気のバランスを下げるには、どう工夫するのか?
西野流には正座での工夫として、「腰から下は温泉」という言葉がある。
身体の下肢をイメージすることになる。
 
しかし効果があるのは結局「華輪」を身体でマスターすることにあるようだ。
身体を回旋させながら、遊園地で子供達が飛び乗りながら遊ぶ回転遊具を廻すように、左右にイメージを下げて回旋するのもいい。
 
華輪で身体が緩むと、自分の気を身体の軸上で上下することができるようになる。
これは大変ユニークな感覚である。
しかも「対気歩き」等の稽古では、相互に上下(昇降)感覚を稽古できる。
やはり時間がかかる。
 

イメージは勿論大切である。
仙台の稽古でこんな経験をした。
西野流呼吸法の内容は、東北大学の新入生にも全学講義で講義した。
「呼吸法がどんなものか知りたければ稽古日においで」というと、好奇心にあふれる学生が数名参加したものである。

呼吸法基礎が終わって「対気」の稽古をはじめ、一人の学生と手の甲を合わせると、彼のイメージは普通の学生よりはるかに低い。
興味に駆られ「君は何のスポーツをやっているの?」と尋ねると、ライフル射撃だという。
的を狙って自分のバランスを低くする工夫はなるほどと思う。
日本における摺り足の伝統と工夫に通じるものがあるか?
 

部屋一面で「気」のレベルが低くて驚いたことがある。
宮城県松島瑞巌寺師家の平野宗浄老師である。
東北大学病院に入院なさり、お見舞いした時のことである。
部屋に入ったとたん、その部屋の気のレベルが私の膝の付近にあるのを感じて本当に驚いた。
禅宗の師家の「気」の位置はこんなに低いものなのか。
(エピソード(15):平野宗浄老師、URLhttps://note.com/deepbody_nukiwat/n/n72e36ef02c4a
 

もう少し基本的に考えて見よう。
なぜ「気」は上に昇りがちなのか? 考えたことはありますか?
 
進化に戻ろう!
我々の上下方向の体幹は、進化を戻れば、四肢歩行の前後軸体幹となる。
前進運動には脊髄中のLocomotion CPG(あるいはBSG)が自動機構として存在する。
 
すなわちほっておいても、図1の卵形のグラデーションのように、前方へエネルギーが集まりやすいかもしれない(図1にはヤツメウナギの脳神経系を加えた)。
それを後方へ集める工夫・稽古が必要(図2)で、古来東洋の修養・工夫であった。
 


これは我々ヒトとして上下方向の体軸・体幹を考えればイメージとして図3になる。
すなわち「気」を降ろすとは、脊髄に組み込まれたLocomotion circuitに働きかけている可能性はないのか?
 

一方で勿論、下への方向は重力の方向という考え方もあるだろう。
しかし、四足動物や極端な例として蛇を考えれば、動物のエネルギー方向は重力方向より、体軸・体幹の前進方向となるのでないか。

人間の場合は、前進方向と体内のエネルギー方向が異なる。下に降ろす意味は脊髄の腰膨大部に前進エネルギーの中心が存在することを意味するのか?

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