デレラの読書録:金原ひとみ『アタラクシア』
偶然性は、必然性を撹乱する。
わたしたちはルールを作って偶然性の脅威に対抗している。
偶然性は不安を煽る、不安に対抗するためにルールを作り、偶然の出来事を、必然の出来事に読み変える。
作家の水島桂の妻である由依は、まさにその偶然性を体現するような人間だった。
由依には固定的な信念は無く、相対主義者で、物事は瞬間によって構成されていた。
「不意に、過去の瞬間瞬間がフラッシュバックするような感覚に眩暈がする。(p.219)」という一節から始まり、丸々2ページに渡って展開される「瞬間の記述」は圧巻である。
桂との出会い、結婚、日常、震災、かつての恋人からのメール、目についたツイート、句点で区切られ並列に配置される事象たち。
ここで、読者はふと思うだろう。
なぜ由依は偶然性を欲望するのだろうか。
この由依の欲望への問いは、「本当は理由があって偶然性を求めているに違いない」というように、偶然性を生きる由依に必然性を付与しようとする読者の振る舞いである。
登場人物が、特に主人公である由依が、偶然的に描かれることを、読者は耐えられないのである。
読者の耐えられなさは、主人公・由依の行動に「必然的な理由」を求めてしまう。
由依の欲望と、読者の欲望が対立する。
そして、この欲望は、さらに一段上の問いを突きつける。
それは、偶然を必然に回収することは「救い」になり得るだろうか、という問いである。
どういうことか。
偶然性を欲望する主人公はどのようにして救われるのだろうか。
各章で物語の一人称視点が切替わる。
章題はそれぞれの一人称視点の人物名が付される。「由依」に始まり、夫の「桂」、そして不倫相手の職場の同僚、妹、不倫相手、仕事仲間と繋がる。
由依は、各章の登場人物たちの人生に偶然的に現れ、彼らの人生を掻き乱していく。
つまり、由依は、彼らの人生を周遊するする偶然性の象徴として現れ、物語を転がしていくのである。
では、最後にはどうなるのだろうか。
人生を周遊する由依の旅は、どこに行き着くのか。
最終章で、由依の旅は完結するのだろうか。
しかし、最終章は「由依」ではない。
「由依」の章で閉じないことが、由依を必然性、ルール、レッテル、連なり、物語、意味、人生から救うためのやり方なのかも知れない。
確かに由依の精神を推しはかれる事実は提示される。
読者であるわたしは、その「由依の精神を推しはかれる事実」を知って、由依の辿った過程を「そういう物語(悲劇の物語)」として消費したくなる。
しかし、それで良いのだろうか。
由依を、必然性の物語の中に閉じ込めることになってしまうのではないか。
偶然性を欲望する、必然性を嫌う由依の欲望を、読者の欲望で塗りつぶして良いのだろうか。
『アタラクシア』とは平静を意味する言葉である。
心が乱されない状態、情熱から自由な様である。
悲しみの物語、残酷な物語に心乱され情を動かされ、物語を消費する。
そこにあるのは読者のカタルシスだけであって、由依のアタラクシアは無い。
由依が必然性の物語から解放されるにはどうしたら良いのか。
物語を拒絶するしかないのだろうか。
でも、本当に?
わたしは翻って、由依の解放もまた、物語によってなされるのではないかと思う。
それは、この小説が物語として書かれているという一点に対する、わたしの賭けである。
必然性やレッテルとは別の物語への。
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