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エッセイ:差異と類似について

「みんなちがって みんないい」という有名な言葉は、金子みすゞさんの「わたしと小鳥とすずと」という詩の一節です。

金子さんの意に即してか、反してか、2010年代の後半くらいから巷でよく聞くようになりました。(わたしの主観ですが)

みんな違うということ、つまり、個々人には差異があるということ。

差異があることが、ここ数年のトレンドであると言えるでしょう。

たとえば、「他人と同じに成るな、自分の成りたい人間に成れ」というようなキャッチフレーズは、専門学校のテレビCMや、就職活動ではよく聞くと思います。

他人と同じ、というのは、つまり類似であるということ。

したがって、ここ数年のトレンドは、差異が良く、逆に、類似は良くないということになるでしょう。

このように差異が流行していると、天邪鬼のわたしは、逆の「類似」について考えてみたくなります。

本当に類似は良くないのだろうか。

類似という概念に面白みはないのだろうか。

今回はこのことについて考えてみたいと思います。

そのためにまず、第一節では、類似の嫌な側面(抑圧)を考えます。

次に第二節では、アニメ「鬼滅の刃」を例に、類似の別の側面(想像と寛容)を考えます。

さいごに第三節で、簡単なまとめをします。

よろしくお願いします。

1.ある種の気持ち悪さ、抑圧

類似が嫌われるのは何故なのでしょうか。

類似と聞くと、わたしは「コンビニのおにぎり」が思い浮かびます。

陳列棚に並べられたおにぎりのように、みんながおんなじ格好をしているように感じられた学校制服、髪の毛の色、おそろいの運動靴に、体育ジャージ。

あるいは、会社員がみんな似たようなスーツを着て通勤する満員電車。

そんな日常風景を思い出します。

また、文学作品で「類似」を考えてみると、ジョージ・オーウェルの『1984年』という小説を思い出します。

この小説では、みんなが同じ思想、同じ価値観を抱いています。

そして、みんながビックブラザーという独裁者を信じており、それを信じないものは「」なのです。

わたしは、文学作品『1984年』の世界と、みんなが同じ格好をしている日常風景には、共通して「ある種の気持ち悪さ」があると思います。

それは、「みんなが同じことをしている」という気持ち悪さです。

なぜ気持ち悪いのか。

その気持ち悪さは、自分が「みんなと同じことをしていない」ときに露見します。

極端なことを言うと、自分は白いと思っているのに、みんなが黒いと言っているような感じがする。

つまり、みんなと違う意見、違う服装、違うことをしている自分が、良くないことをしている、と抑圧されているような気持になるということ。

少数のひとを抑圧する、類似にはそんな性質があるのだと思います。


2.寛容であること

類似には抑圧的な性質があって、それが「類似」という概念が嫌われる原因のではないか。

だから、類似ではなく、差異が良いとされる。

「みんな違って みんないい」という言葉は、類似の抑圧から、少数者を解放してくれるように思います。

しかし、差異がトレンド化し、流行し、みんなが「差異が良い」と言い始めると、わたしはそこに「抑圧の気持ち悪さ」を感じるのです。

抑圧から解放してくれるはずの差異が、類似を抑圧し始める。

そんな風に思います。

では、類似の良いところはないだろうか。

わたしは、類似には、「想像のキッカケ」があるように思います。

では、類似という概念がもつ「想像のキッカケ」とは何か。

突然ですが、アニメ「鬼滅の刃 遊郭編 第十話」を例に出して考えてみましょう。


先日、わたしはアニメ「鬼滅の刃 遊郭編」の第十話を見ました。

わたしは、マンガではなくアニメだけでストーリーを追いかけていますので、その後の展開は知りません。

また、唐突に第十話を例に出しますが、鬼滅の刃のストーリーが分からなくても、ほとんど論旨に影響はないので大丈夫です。

さて、「鬼滅の刃」とは、主人公・炭治郎が、人々を襲い悪事を働く「鬼」を退治していく話です。

もともと鬼は人間なのでした、しかし鬼に噛まれて鬼の血が人間に入り込むと、人間は鬼になり、鬼となった人間は、別の人間を襲います。

炭治郎は、その鬼を討伐する鬼殺隊の一員として、鬼たちと戦い成長する物語です。

シンプルにまとめると、こう↓です。

主人公・炭治郎たち鬼殺隊 VS 人間を襲う鬼たち

さて、遊郭編では、人間を襲う兄妹の鬼が登場します。

戦いの果てに、炭治郎が兄妹鬼を退治するとき、妹がいる炭治郎は「ある想像」をします。

それは、もしかしたら「自分たちが鬼になって人間を襲う世界があったかもしれない」という想像です。

兄妹鬼は人間を襲い悪事を働く鬼であり、許されざる存在である、しかし、一方で、自分たちもそうなっていたかもしれない、ということ。

ストーリー上では「兄妹」という類似性をキッカケに、炭治郎は想像するのですが、わたしはもっと深い類似性があるように感じられます。

というのも、炭治郎は「立場や状況が違えば自分たちも鬼になっていて人間を襲っていたかもしれない」と想像しているからです。

どういうことか。

根本的には、鬼も人間も類似している、ということです。

つまり、鬼も、人間も、本質的には「類似」していて、たまたま「立場や状況」によって、鬼だったり人間だったりしている、ということ。

鬼と人間は全く切り離された存在ではないのです。

似たような人間がたくさんいて、生まれた場所、時代、環境によって差異が生じているだけなのだ、ということ。


さて、ここから「鬼滅の刃」を飛び出して、話を飛躍させます。

たとえば、環境に配慮すべきだと考えるひとも、生まれる時代が違っていれば、毎晩遊び歩いて大量消費を満喫していたかもしれないということ。

焼肉が大好きなひとも、生まれる国が違えば、菜食主義者になっていたかもしれないということ。

賛成と反対に分かれて、意見を戦わせているひとも、立場・状況・環境・時代などが違えば、お互いに逆の意見であるかもしれないということ。

あらゆる対立構造は、根本的な類似性に基づけば、差異は解消してしまい、ただ「立場や状況」だけが残る。

そして、自分も、「立場や状況」が違えば、自分が対立している向こう側にいたかもしれないということ。


これは、あくまで「想像」の話です。

実際には、生まれ変わることはできず、もし生まれ変わったとしたら、それは別人であり、わたしではなくなります。

つまり、対立構造の向こう側を「自分もそうだったかもしれない」と想像することしかできません。

しかし、この類似から生じる想像は、寛容さを生み出すのではないでしょうか。


差異は、単にわたしとあなたが違う、というところで思考が止まってしまいます。

わたしとあなたには差異がある、ということを、鬼滅の刃の例に当てはめるなら、あなたは鬼になっても、わたしは鬼にならない、なぜなら、あなたとわたしは違うから、となります。

一方で、類似には想像がある。

わたしとあなたは似ていて、もしかしたら、わたしがあなたで、あなたがわたしがったかもしれない、という想像から、「あなた」を受け入れるための「寛容さ」が生まれるかもしれない、ということ。


3.おわりに

ここまで読んでいただきありがとうございます。

簡単にまとめます。

わたしたちは、差異と類似について考えてきました。

差異は、最近のトレンドであり、流行している価値観です。

一方で、類似は、抑圧的な性質があり、最近は嫌われているのでした。

しかし、類似について掘り下げて考えてみると、類似とは「寛容さ」へとつながる「想像のキッカケ」であることが分かりました。


したがって、このように図式化できます。

差異は、類似の「抑圧」から解放してくれる、でも「寛容さ」へのキッカケとなる「想像」がない。

類似は、「寛容さ」へのキッカケとなる「想像」がある、でも少数を「抑圧」する性質がある。


差異と類似。

それぞれの性質を考えると、良いところと悪いところがあり、片方だけを良しとすることはできないのかもしれません。

(類似と差異を比べて、類似には類似の良いところがある、と考えるのは、あまりに差異的な思考ではありますが、その自己ツッコミは置いておきましょう)

さて、最後に強調しておきたいことがあります。

それは、類似による想像は、やはり想像に過ぎないということ。

たとえば、寛容になろうとしても、自分に対して暴力的な振る舞いをする他者にまで寛容にはなれない、という現実はあるでしょう。

誰にでも寛容になれるわけではないし、全てのひとについて「自分もそうなっていたかも知れない」と想像することは、やはり難しい。

類似による想像と、寛容さの可能性は、必ずしも万能ではない。

だけれど、「類似は万能ではないし、抑圧的だからダメだ」と振り切りたくはない。

この微妙で曖昧な差異と類似の関係のなかで、わたしは都度、逡巡するしかないのかも知れません。

わたしは、あなたとの差異を意識します。

わたしとあなたは違う。

しかし、わたしは想像するのです。

わたしとあなたは実は似ているのではないか。

いまのわたしの置かれている状況・立場・時代・環境が違えば、わたしはあなただったのではないか。

わたしは想像するのです、わたしとは違うあなたとの類似を。


おわり


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