デレラの読書録:檜垣立哉『日本哲学原論序説 拡散する京都学派』
西田幾多郎の哲学を起点に、田邊元、和辻哲郎、三木清、廣松渉、木村敏、九鬼周造、坂部恵、大森荘蔵、網野善彦、吉本隆明と辿っていく。
キーワードは「永遠の今」である。
「いま、ここ」を追究する哲学の潮流。
西田幾多郎の系譜に廣松渉を並べるのは、違和感があるかもしれない。
廣松は「近代の超克」の批判者である。
その批判の矛先は当然、京都学派の源流である西田や田邊に向いている。
しかしながら、廣松の「自己分裂的自己同一」や「事的世界観」は、現象の二面性と主体の二重性とが折り重なっている仕組みにかかわっていることから、客体(現象)と主体の未分状態である純粋経験と同型ではないか、といい得るのである。(とはいえ、やはり差異もある。詳しくは、第六章)
さて、キーワードは「永遠の今」であった。
この西田哲学のキーワードが、京都学派の根本にあり、それが日本哲学のなかで「拡散している」のである。(本書はその拡散の道筋を追っているのである。)
拡散する「永遠の今」。
永遠の今、つまり純粋経験という主客未分の出来事。
無時間的で究極な「永遠の今」から、直接無媒介に自覚(差異化)の位相をへて、立ち現れる「自己」。
その生成過程は、自然史や生命論を想起させる。
自己は、言わばカオスから断ち切られた単独者ではないということだろうか。
つまり、自己は単独者であり、かつ永遠の層に重なっている、多層的存在者。
この抽象的な議論を、わたしたちは「現在」における「ままならなさ」として実感することができる。
いわゆる偶然性の問題。
わたしたちは未来を予想し、行動計画を立てる、しかし、計画は大抵は予期せぬ事態に晒され頓挫する。
この「ままならなさ」。
わたしたちは予想と偶然の二重性を生きている。
日本哲学の原点(西田哲学)は、生活感覚的な「ままならなさ」に通じているのではないか。
その能動性に三木の構想力論があり、受動性に賭博論がある。
あるいは媒介としての種の論理があり、「あいだ」があり、「生命論的な差異」がある。
この序説の次にわたしは『日本近代思想論』(檜垣立哉,2022年)に進まねばならない。
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