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感想文:二つの矛盾(映画『オッペンハイマー』について)

映画『オッペンハイマー』の感想文です。ネタバレがありますのでご注意ください。


映画『オッペンハイマー』を観ました。

原爆の父と言われるオッペンハイマー博士の人生を描きだす本作は、繰り広げれる会話劇、映像美と音楽美、名俳優たちの演技、巧妙な時間操作の演出が話題です。(すごい!)

SNSではさまざまな評価がなされています。

原爆というテーマは、肯定・否定の両面の感想を巻き起こしています。


わたしは、肯定・否定の単純な二項対立を離れて、この映画で描かれる二つの矛盾に注目し、ある一つのシーンを取り上げて、この映画を解釈してみたいと思います。



1.原動力

この映画の原動力はなんだろう、という単純な問いから出発します。

原動力というのは、ようは、最初から結末に向かって物語を推し進めるためのコアとなるものです。

一つは「ストローズのオッペンハイマーに対する私怨」かもしれません。

ストローズの私怨は、この映画の主軸となる二つの公聴会を動かしているからです。

しかし、わたしはそのスキャンダラスな原動力とは別のもう一つの原動力があったと思います。

もう一つは、「オッペンハイマーが人生のなかで出会い続けてきた世界の矛盾」です。

では、世界の矛盾とは何か。


2.世界の矛盾

この映画には矛盾が織り込まれている。

キュビズムの絵画、特にピカソの絵にフォーカスされるシーンもありました。

フォーカスされたピカソの絵は、前から見た顔と横から見た顔が同居した絵でした。

ようは、ピカソの絵は視点が矛盾しているのです。


さて、気取り屋で破天荒な性格でありながら、個人的な出来事に傷つく繊細なところもあるオッペンハイマー。

世界の不思議さ、世界の謎に困惑しつつその魅力に取り憑かれる病みがちな学生だったオッペンハイマー。

しかし学生時代とは裏腹に、後のオッペンハイマーは、四千人・二十億ドルを掛けたマンハッタン計画のリーダーへと変貌を遂げます。

その人生自体が矛盾を孕んでいるようにも思います。

精神を病むひ弱な学生と、当時の世界のなかで最も巨大なプロジェクトのリーダーは、あまりにかけ離れた存在でしょう。

しかし、わたしがここで言いたいのはもう少し抽象的な矛盾についてです。

この映画には二つの矛盾が潜んでいる。

では、二つの矛盾とはなにか。

一つは物質の矛盾、そして、もう一つは人間の矛盾です。


3.物質の矛盾

オッペンハイマー博士は量子力学の専門家です。

量子力学とは、ざっくりと言ってしまえば、物の最小単位である原子がどのような法則にもとづいて運動したり現象したりしているのか、ということについて研究する学問です。

原子は、原子核とその周りを運動する電子からできており、つまり、物質は原子核と電子の集合体ということ。

そして、量子力学においては、原子は、粒子でありかつ波である、とされています。

粒子であるということは、要は静的であるということ。

波であるということは、要は動的であるということ。

静的であり、かつ動的である。この矛盾が同時に成立するのが量子力学の特徴です。

まるで、前から見た視点と横から見た視点が同居しているピカソの絵のように。


さて、これだけでは抽象的ですので、具体的に、わたしたちの身体にこのこと(静的で動的)を当てはめて考えてみましょう。

身体も、原子でできていますから、物体として粒子であり波であります。

しかし、「身体は波だ」と言われても、わたしたちの身体は、波のように柔らかく動くわけではないし、ましてや、波同士がぶつかって混ざり合うように、わたしたちの身体同士がぶつかったときに混ざり合うようなことはありません

ようは、身体は個体として形を保持しています。

この矛盾はとてもシンプルな問いを想起させます。

シンプルな問いとはなにか。

それは、なぜ個体は個体としての形を保持しているのか、ということです。

世界の物質は、動的(波=流体)であり、かつ静的(粒子=固体)である。

これが物質の矛盾です。

学生時代に、この物質の矛盾に取り憑かれたオッペンハイマー青年は、量子力学者として才能を発揮します。

そしてその後に、核分裂の連鎖反応を利用した核爆弾を作るまでに至ります。


4.印象に残ったシーン

さて、このシンプルな矛盾を、ノーラン監督は様々な映像で表現していたように思います。

焚き火の映像や、粒子の映像、太陽フレア、爆発の映像。

雨が水たまりに落ちたときに水面に広がる波紋。(特に、雨の波紋は一番最初のシーンで象徴的に描かれています。)

わたしは中でも、とあるシーンが印象に残っています。

あるシーンとは何か。

それは、椅子に座るオッペンハイマー青年が、ガラス製のグラスを手に取り、執拗に何度も床に投げつけ、グラスが砕け散る様子を観察するシーンです。

このシーンは、学生時代のオッペンハイマーが「物質の矛盾」に困惑しながらも、その謎めいた不思議さの魅力の虜となっていく過程を見事に表現しています。

このシーンをわたしなりに解釈してみましょう。

ガラス製のグラスもまた、原子の集まりです。

原子は、動的(波=流体)であり、かつ静的(粒子=固体)なのでした。

したがって、ガラス製のグラスもまた動的であり静的でもある矛盾した存在です。

グラスがグラスとしての形を保持している、このこと自体がオッペンハイマー青年にとって世界の不思議なのです。

ガラスは床に投げつけられる事で、その形状保持は崩され、粉々になってしまう。

波=流体のように床を通過したり、床と混ざり合ったりせずに、床に衝突した力によって単に破壊されます。

外から力が加わることで、物の形状保持は終了し、破裂するようにして飛び散る。

その様子をオッペンハイマーはじっと観察していた。

このイメージが、中性子が外からぶつかることで原子核を破壊し破裂させ、それが連鎖し、強烈なエネルギーを生みだす核爆弾のイメージにまで一直線につながっている、わたしはそのように思います。

したがって、このシーンはこの映画を貫くイメージ(物質の矛盾から核分裂連鎖反応へと物語を進める原動力)を表現したシーンなのではないか。

雨の波紋もまた、粒子=固体であり波=流体である雨粒が、水溜まりにぶつかり溶け合うことを表現し、かつ同時に、その波紋はまるで核爆弾が地上に投下された時の被害範囲の円を表現しています。

大量の雨粒の波紋は軍拡による核戦争すら想起させる。

ようは、ノーラン監督は、物質の矛盾から核爆弾への飛躍を表現しているということ。


5.人間の矛盾

では、次に人間の矛盾とはなんでしょうか。

人間の、というところを、欲望のと言い換えられるかもしれません。

あの時代、人間は、核爆弾を欲望した。

ヨーロッパでの第二次世界大戦と、アジアでの太平洋戦争を終わらせるために。

それは、人間を絶滅させるほどの圧倒的な力です。

人間が人間を絶滅させる力を欲望する、という矛盾。

その力は、ロスアラモス研究所で発明されました。

研究所は、国家機密保護のために、関係者全員をそこに集めて情報統制する必要があります。

なので、広大な土地に研究に関わる人間たちが住むための街そのものを作ったのでした。

何千人もの人が家族ごと引っ越してきて、即席の街を作る。

街には当然、生活があります。

人間は、人間を破滅させる力を、生活しながら作っていた、というある意味当たり前の事実を目の当たりにします。

ようは、そこで働く人々は悪魔ではなく、普通の人間たちでした。

仕事にひたむきに取り組み、ときに同僚たちと衝突しながら、課題を解決していく。

会社員として日銭を稼いでいるわたしは、仕事の苦労に対する彼らの生き様を観て、その様子に共感していました。

人類を破滅させる力を作るのは悪魔ではない、ということ。

それを作った彼らは、当然わたしよりも能力が高いけれど、本質的には自分と大して変わらない普通の人間である

逆に言えば、核爆弾に対して嫌悪感を抱くわたしと、それを発明し完成のときに喜びあっていた彼らとは、本質的な差はないということ。


ロスアラモス研究所で働く人たちから、オッペンハイマー博士の話に戻しましょう。

オッペンハイマー博士もまたたくさんの矛盾を抱えているのでした。

物語では、オッペンハイマー博士は、第二次世界大戦の文脈でナチスに先んじて核爆弾を開発する決意をします。

しかし、後の水爆(重水素を使った爆弾)の開発には反対しました。

核爆弾も水爆も同様に極大な力を持ちます、ハッキリ言って、威力の大きさは違えども(水爆の方が大きい)、日常感覚としては大量の生命が暴力的に奪われるという点においては、ほとんど区別はないでしょう。

ナチスに対抗するだとか、日本軍が降伏しないだとか、水爆には技術的に問題があるだとか、新たな兵器開発は軍拡に繋がるだとか、オッペンハイマー博士はその時の状況に応じて、目的や理由を挿げ替えていきます。

ようは、その時の言い訳を使って自己正当化します。

なぜそんな必要があったのか。

それは、「物質の矛盾」の崇高性に魅了された、という科学者の根本的な欲望を糊塗するためではないでしょうか。

オッペンハイマー博士は、崇高性への欲望をひた隠しにして、国家の核爆弾への欲望に乗った。(念のため補足すると、科学者の中にはその欺瞞に気がついた人々もいたことをノーランは描いています。)

科学者は、核爆弾の使用には責任を持てない、という言葉を欺瞞的な自己の癒しに使ってしまっていた。

その報いを後の時代に受けることになります。

しかし考えてみれば、オッペンハイマー博士がいなくとも核爆弾は作られたでしょう。

それは人間の欲望だからです。

人間の欲望の責任を、個人が負えるはずもない。

しかし、あの時代はオッペンハイマー博士の政治性(左翼よりだった政治性)を利用して、反共産主義の旗印のもとに、人間の欲望の責任をオッペンハイマー博士個人に負わせたのでした。



6.おわりに

わたしはこの映画に二つの原動力を見ました。

一つはオッペンハイマーとストローズの対立であり、もう一つは二つの矛盾なのでした。

前者はとてもドラマティックで面白い要素だったけれど、わたしは後者が突き動かす物語に注目しました。

世界の不可思議さ、物質の矛盾、その崇高性。

人間の欲望の矛盾、その日常性。

二つの矛盾が、あるいは崇高性と日常性が交錯したとき、巨大な爆弾が誕生した。

この作品は、映像としても物語としてもそれを克明に描いていたのです。

あなたはこの映画を見たでしょうか?

この映画をどう感じたでしょうか?

わたしは、この映画における「オッペンハイマー博士の人生」は、物質の矛盾と人間の矛盾を象徴し体現しているのだと感じました。


おわり


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