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デレラの読書録:金原ひとみ『マザーズ』


『マザーズ』
金原ひとみ,2011年,文庫化2014年,新潮文庫

この小説は、今のわたしにはあまりにも強烈だった。

わたしは生物学的に男性なので、安易に「共感した」とは言い切れないのだけれど、一歳の子をもつ人間としては、あまりに悲劇的なドラマであった。

子をもつ3人の女性が、それぞれに「母性」と格闘する物語。

「母性」の抑圧の物語、その悲劇性を十分に描いている。

しかしながら、ここでは悲劇的なドラマを一旦横に置いて、抽象的なレベルでこの小説を支える原理は何かを考えたい。

小説を支える原理とは何か。

それは、その原理に則って登場人物が動き、物語が駆動する、と思わせるような、小説内のルールである。

そういうルールが明確に存在するかどうかは、分からないのだけれど、作品と読者の解釈のあいだで誕生し、物語だけではなく読者の感想をも駆動する、すくなくとも読者にそう思わせるものである。

では、この小説におけるルールとは何か。

それは「AかつnotA」と言える。

やや俗っぽく簡単に言えば、嫌いであり、かつ同時に、好きということ

言い換えれば、二律背反を同時に含むということ。

たとえば、どういうことか。

登場する3人の女性はそれぞれがそれぞれに嫉妬し共感し忌み嫌い合い励まし合っている。

家事育児をしない夫には怒りと同時に愛おしさを感じ、不倫相手には癒しを求めて、同時に安易な癒しの言葉を軽蔑する。

自分の母親に育児についての小言を言われ嫌悪し、同時に同族的な共感をもつ。

さらに言えば、子どもを持つということ、妊娠や出産さえも、良いことでありかつ同時に悪いことでもあるということ。

金原ひとみは、夫=嫌い、不倫相手=好き、親族=好き、子ども=良い、のような単純な図式ではなく、好きかつ嫌いという複雑さがある。

世間では、やや強調していえば、妊娠出産というものは、奇跡的で神秘的で不可侵なものである、と考えられているだろう。

あるいは、不倫は悪いものである。

そういう固定的な良し悪しをいったん宙づりにして、良くもありかつ悪くもある、というように描いていく。

ではなぜ、AかつnotAなのか。

それは、ものごとには複数性があるからだろう。

つまり、すべての不倫が悪いわけではない、仕方がない不倫もあれば、快楽的な不倫もある、それらは見方によって良し悪しがコロコロと変わる。

したがって、小説のタイトルである『マザーズ』は、複数系で表現されているのである。

唯一の母性(マザー)があるのではない。

母性は、奇跡で神聖で神秘的な唯一なものではなく、ひとを狂わせ、抑圧し、個人の自由を剥奪する。

子どもという決定的な弱者(放っておけば死んでしまう存在)によって、母は(ここではあえて母はとする、親はと言い換えられる)、育児を強制される。

その意味で、母性は、福音でもあり、かつ、悲惨でもある。

そのようにしてこの小説の物語は駆動している。


悲劇的なドラマを駆動するのは、この「AかつnotA」の原理と、子どもという弱者によって押し付けられる「悲惨であり福音である母性」という力である。

母性は登場する母親3人を抑圧し、それぞれの仕方で「起爆」のスイッチを押す。

AかつnotAの原理は、その爆ぜていく爆発力の起源である。

「起爆は絶望した人にだけ可能な自己治癒なんだよ。子どもとか幻想としての母性を恐れて攻撃に走るのは良くないよ。攻撃は常に弱者の逃げ道で、そんな事をしても必ず負ける。涼子が今すべき事は攻撃じゃなくて起爆だよ。涼子はそうする事でしか救われない」

(p.311)

起爆は絶望の最高到達点となる。

そうして初めて救済の道のりが始まる。

彼女たちはある意味では自分の選択によって、自分の意志によって起爆へと向かっていく。

しかし、同時に別の見方をすれば全く自分の意志に関係なく選ばされた道にも見える。

そうせざるを得なかった、の積み重ね、蓄積、火薬の山。

爆ぜた後に物語が終わるのではない。

起爆によって重要な何かを失うことで、そこからようやく始まる。

何かを始めることは、何かを犠牲にすることであり、何かを続けることは、自分を犠牲にすることである。

その選択は自分のものであり、かつ同時に自分のものではない。

狂気、悲劇、メランコリック、不条理。

かつ同時に、その裏側にある福音、幸福、豊かさ。

振り子が片方からもう片方に揺れる。

その揺れに、酔ってしまう感覚。

小説を読み終えて、まず最初にしなければならないのは、揺れを抑えるために、自分の足を地につけることであった。


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