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エッセイ:2023年の積み残しについて

年末ですね。こんにちは、デレラです。

みなさんは、どのような年末を過ごされているでしょうか。

もしかしたら、年明けに読んでくださっている方もいるかもしれませんので、念のため、明けましておめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします。

年末年始ですので、2023年の反省と2024年の目標設定です。

2023年もお付き合いいただき大変ありがとうございました。

2023年は、主には読書録とエッセイ、それから僅かながら創作も投稿した年でした。

繰り返しますが、今年も記事を見てくださりありがとうございました、来年もまた遊びに来てください。


2023年の目標は、継続的に記事を投稿すること、そして、特に「経験論」について考えるということでした。

年初の頃は、イギリス経験論を概観した記事を投稿したりしてのですが、そこからすっかり疎かになってしまいました。


他方で、読書録のほうでは、金原ひとみ作品を一気に約十六作品連続で読み、読書録を書きました。

一人の作家の作品を、一気に大量に読むと、その作家の作家像がぼんやりと浮かんできたりします。

一冊読むだけでは得られない体験でした。


また、今年は、これまでとは全然違うことがしたいと思い、僅かながら創作も行いました。

ここで言う「創作」とは、素材を使って勝手気ままに手を動かしてモノを作ることです。

ようは絵の具を塗ってみたり、紙をハサミで切ってみたり、毛糸をテープで貼ってみたり、いろいろしました。

これはこれで、とても解放的な気分を味わえました。


色々と書いたり創ったりした年でしたが、やり残したことが二つあります。

ひとつは、先ほども書きましたが「経験論」について考えられていないこと。

そしてもうひとつは、「イメージについての三部作」が未完であることです。

まずは後者のイメージ三部作について。

第一部は「エッセイ:文字と言葉、あるいはマテリアル・イメージ・シンボルについて」でした。

第二部は「エッセイ:非一般的読解について」でした。

しかし、第三部の投稿ができていません。

下書きは進めているのですが、なかなかしっくりこずに、投稿できずにいます。


前者の経験論と後者のイメージについて

じつは、この二つの積み残しは、わたしのなかで深くつながっています。

経験論について考えなければならないと思った理由は、イギリス経験論の祖とも言われるジョン・ロックの思想がわたしのなかで引っかかっているからです。

何が引っかかっているのか。

それは、ジョン・ロックの認識論にかかわるものです。

ロックは、人間が何か物を認識をするときに、いわゆる「第一性質」とか「第二性質」と呼ばれるものを認識していると考えました。

詳しくは説明しませんが、その物の本体が第一性質であり、その本体に関連する匂いや色や味や熱のようにそのうち消えてしまうものを第二性質であると、ロックは考えました。

ようは、第一に変わらない本体があり、第二に変わっていく特徴がある、ということ。

この考え方は、一寸は「なるほどそうかもしれない!」と感じるのですが、しかし、よく考えてみると「うーん、第一と第二の違いってあるのか?」とか「変わらない本体って何?」というように、疑問が生じていきます。

実際に、後の経験論者である、バークリーやヒュームによって、ロックのこの第一性質と第二性質という考え方は批判されていきます。

どの哲学史の本を読んでも、「ジョン・ロックはイギリス経験論の開祖だと言えるが、後にバークリーとヒュームに批判された」というようなことが書かれているでしょう。(たとえば、熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』,岩波新書,p.52)


さて、わたし自身も、ロックの第一性質と第二性質という概念はフィクションだと感じています。

しかし同時に、フィクションだという点において重要だとも考えています。

ようは、わたしたちが物を認識しようとしたときに、何かしら「その物とその物から感じられるものがある」と発想することは、そんなにおかしいことではないということ。

さらに言えば、物には変わらない本質のようなものがある、と感じることは、生活感覚的におかしなことではないということ。

厳密に検討すれば、それは真実ではないかもしれない、つまり、フィクション=勘違いかもしれない。

さらに言えば、そういうように、イメージしてしまうだけで、真実ではない、ということ。

ここで、わたしが積み残した「経験論」と「イメージについて」の二つが交錯します。

どういうことか。

経験論の始祖たるジョン・ロックは、認識論を考えるときに、「第一性質と第二性質」という観念に至った。

それは後に批判され、フィクションであり、そういう感じものがあるというイメージに過ぎないことが明らかになります。

一方で、わたしは、厳密にではなく、なんとなく考えれば「そういうイメージを抱く」ということは、現実感があると思います。

真実ではなく、現実感があるということ。

わたしは、認識のときに勘違いしてしまうということは良くあることだと感じます。

なんかまずは本体があって、それにまつわる性質があるんじゃないか、って感じてしまう。

この「感じてしまう」ということにわたしはリアリティを感じるのです。

真実とは違うもの、それは感じてしまったこと。

真実とは違うもの、それはイメージ。

この飛躍を許してください。

わたしは「感じてしまったこと」というものを「イメージ」という言葉で指し示したいと思っています。

ジョン・ロックが、彼の認識論において「第一性質」と「第二性質」があるんだと主張したとき、その飛躍には「イメージ」がかかわっているとわたしは直観してるのです。

ジョン・ロックの経験論には、ジョン・ロックのイメージの力、言い換えれば、ジョン・ロックの想像力が賭けられているということ。

わたしは、この想像力、あるいは、イメージの力について考えたい。

それが、わたしの「イメージに関する三部作」につながっているのです。


謎に力説してしまいましたが、これがわたしが2023年で積み残したことです(笑)



さて、唐突ですが、2024年はどういう一年にしていきましょうか。

きっと、相変わらず本は読むでしょう。

また、なんかくだらないことを考えては文章を書くでしょう。

2024年の目標は、2023年の目標よりももっとゆるくしたいと思います。

本を読み、なんか記事を書いて、読んでもらう。

これが2024年の目標です。

きっと来年も良いことも悪いことも起きるでしょう。

めんどくさい日常が繰り返されるでしょう。

それでも、すこしでも、あなたに安らぎと平穏がありますように。

よいお年をお過ごしください。

来年も(あるいは本年も)どうぞよろしくお願いいたします。

では、また。

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