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釣り人語源考 月読命 その2「潮周り暦」

筆者は古代の日本に、死んだ時の年齢を数える「潮周り暦」が存在したのではないかと思っており、前回「釣り人語源考 月読命」にて大まかに説明を書かせていただきました。
いわゆる「数え年」というのは昔の日本で使われた年齢を数えるやり方という事になっています。「満年齢に1を足したもの」「お正月に年を取る」と言われますが、古文書などでは合致しない例があったりと「数え年」は古代と太陰太陽暦が使用された時では違っていたと思っています。
古代では「胎内で命を宿した時」から月齢を数え始め、新月前の若潮から満月前の長潮までの約14.7653日を「ひとしお」、次の若潮から長潮までを「ふたしお」、約177.1836日が「ひとめぐり」となります。

今回は詳しい説明と、実際に古事記の崩御年齢・崩年干支を基にExcelの表に記入してみたので、ぜひとぞご検討を宜しくお願い致します。

まず、古事記に記載された崩御年齢は潮周り暦を使用したと仮定したので、実際の年齢の算出方法は「潮周り年齢 ÷ 2.061」とし、さらに「10月20日~25日より後に亡くなった場合は1歳増やす」作業をします。
おそらく母の子宮に身籠った時から人の人生は始まっているという古代日本人の死生観より、妊娠期間である290~295日間(10か月間)も加えなければなりません。

細かい暦の閏年などは全く素人で分かりませんが、「国立天文台暦計算室」の「暦Wiki」が詳しい説明を載せてますので参照してみてください。

崩年干支が記載されていない天皇に関しては、親子関係や兄弟関係が矛盾しない年代にしてます。数年のずれがあるかもしれません。


注目するところは「小碓命おうすのみこと(日本武尊)」の年齢です。
日本書紀では「弟の稚足彦わかたらしひこ(成務天皇)が2年下で誕生した」、「日本武尊は30歳で亡くなった」と記載されてます。
日本書紀は、このような情報は校正されずそのまま書き込まれているとおもわれ、日本書紀の紀年と矛盾しますが元々の記録そのままである証拠だと思っています。
すると小碓命が亡くなった30歳の年に、後の仲哀天皇である帯中津日子たらしなかつひこが産まれています。

また応神天皇の崩年干支と宝年を記述どおりに計算すると、大幅にずれが生じています。
これは多くの人が提唱している説である「品陀真若王ほむだのまわかのきみと誤認してしまった」というものに従っています。
なぜなら真若王の父である五百木入日子いおきいりひこが「日嗣皇子ひつぎのみこ」となっているからです。
そこで、古事記の記述どおり仲哀天皇が崩御なされたのち、一年の「胎中」期間をおいて誕生なされたとします。応神天皇の宝年は不明となりますが、「倭王讃」の朝貢のきっかけが菟道稚郎子うじのわきいらつこの即位と数年の喪の明けと推定してます。

そのほかの天皇の年齢や年代、親子関係・兄弟関係は矛盾がありません。
しかし「雄略天皇」だけは全く適合していません。
「目弱事件」のとき、「未成年だったが、7歳の目弱に殺された兄の安康天皇のために全く動かない2人の兄を引きずってぶっ殺す」という記述を参考にして、「允恭天皇の子供である」と矛盾しない年代に当てはめてます。
この雄略天皇の崩年干支の謎を解かなければならないのです。

「潮周り暦崩御年干支」エクセルファイル

参考になるYouTubeチャンネル「燃え盛るようにあつい日本古代史」


釣り人語源考 月読命 その3「雄略天皇」
へ続く

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