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誰も罪悪感なんて持たなくていい ―千葉県民だった私の、東日本大震災にまつわる記憶

LITALICOの鈴木悠平さん(ライターの仕事関連で懇意にしていただいている)がこんな記事を書いた。

彼は幼いころに実家で阪神大震災を経験し、長じて東日本大震災では被災地支援に身をやつした。ただ、彼の震災をめぐるストーリーは、「阪神大震災の被災者→ だから東日本大震災で被災地支援をしようと決意した」みたいな、シンプルでわかりやすいものではない。どんなストーリーであるかは、ぜひ悠平さんの記事で読んでいただきたい。

この記事をなんの気なしに読んだ私は、心をすっかり持っていかれた。「なんだ、自分も自分なりの震災経験について語っていいのだ!」という、矢も盾もたまらないような気持ちに襲われたので、今日はこの記事を書いて過ごそうと思う。(現在朝の9時ごろ)

震災当日 〜 数日後

震災当時、私は実家での10年ほど続いたひきこもり生活を終えようとしていた。1年ほど前にようやく発達障害を自覚し、「では特性的にやっていけそうな範囲で、確実に食えそうな『手に職』を」と、2011年の4月に鍼灸マッサージ師養成の専門学校に入学するところだったのだ。

3月11日の14時すぎ。睡眠相が後退していた私は、確かその日も昼前後に起きて、ようやく遅いブランチを食べたころだったと思う。数日前からひどい喉風邪をひいていて、熱やくしゃみ鼻水、喉の腫れに難儀していた。当日のインスタの写真を見てみると、私は喉にいいハーブティーを作って飲んでいたみたいだ。

突然ゆれくるが鳴ったので見ると、「緊急地震速報 福島県浜通り 最大震度7 27秒後」とか出ている。
(ゆれくるが突然鳴るのは、よく考えたらごく当たり前のことだ)

一瞬で背中が凍った。何かの間違いであればいいと願いながら、部屋の中のいちばん安全そうなところにしゃがみ込み、心のなかで残り秒数を数えた。揺れの到達予定10秒ぐらい前の時点で、ペットのオカメインコがパニックを起こして暴れだし、同時に体験したことのないような不気味な地響きが聞こえてきた。そして大きな揺れがきた。

揺れは1分以上続いた。家中のガラス窓がバババババと大きな音をたてて震え、古い木造の家がきしむ。ふんばっていないと自分も転がりそうというか、「このまま地盤ごとひっくり返って、私は振り落とされて土に埋まるのではないか」…… たとえばハリウッド映画でよく見る、巨大な宇宙船が土けむりをあげながら離陸していくかのような…… そんな揺れだった。

自分の立っている地面を信頼できなくなったことなど、生まれて初めてだ。揺れは永遠に続くかのようで、車酔いのように気持ち悪くなってきた。ガタガタと揺れる本棚にみっちりと並ぶ、私が小さいころから読んできた学習系の月刊誌の背表紙に目を当てながら、「あ、もしかすると私ここで死ぬのかもな。いろいろあったし大半はつらいことだったけどあっけないもんだな」と観念し、これが私の見る最後の風景か、世界よさようなら、と何にともなく祈った。

幸運なことに、家が崩れたり地盤がひっくりかえったりすることもなく、しばらくのちに揺れは収まった。オカメインコのピーコは暴れすぎて放心状態だった。

5分か10分ほどあとだったか、私もあまりのことに動けないでいると、母がごそごそと隣の家からやってきた。幸い無傷で、いつもどおり睡眠薬の飲みすぎでぼうっとして、不機嫌そうな顔だ。

母について詳細はこちらを。

※私の実家は、同じ敷地内に祖父母の建てた古い家と両親の建てた比較的新しい家が並んで建っている。料理と食事は古い家で、その他の生活は新しい家でしていた。地震発生当時、私は古い家、母は新しい家にいた。

はっと気づいて、そうだそうだとテレビをつけると、テレビは地震一色になっていた。どれぐらいの時間を経て津波の話になったのかは覚えていないけれど、二人でしばらくテレビを見た。

まもなく宅電が鳴った。ふだん宅電に出るのはなんとなく母と決まっているのだけど、なぜか母は不機嫌そうな顔で正座したままボリボリとおせんべいを食べつづけて、出ようとしない。

繰り返し鳴るので、父か兄だろうと私が出たら、やはり兄だった。

※父も兄も海外赴任中で、私と母はこの広い敷地で実質二人暮らしだった。

「ていうかお母さんなんで電話に出ないの?」半笑いで兄が問う。
「わかんない…… おせんべい食べてる……」私も思わず半笑いで答える。母のほうを見やるが、こっちに目をやりもしない。虚空を見つめながら正座して、ボリボリとおせんべいを食べている。

ひとしきり、家は崩れてないとか、本棚も倒れてない、水も電気も止まってないなどの報告をして電話を切った。

ともかく何が怖いって、母の様子。いま思えばたぶん解離だと思うんだけれど、魂の抜けたような、状況に対するテンションがちぐはぐな母と二人でこのような非常事態を過ごさねばならないのだと思うと、気が滅入った。

しばらくして、私が家の中の被害状況を見てまわった。古い家のほうのはっきりした被害は、玄関先に飾ってあった陶器の人形が落ちて割れたとか、本棚の中の本が揺さぶられて少しズレた程度のもの。

新しい家もほぼ被害はなかったが、二階の私の部屋がそれなりにひどく、机の引き出しは全開になって壊れ、PCのディスプレイはまっさかさまに落ちていた。本棚自体は倒れていなかったものの、中の本や資料の8割近くがすべて落ちて床に散乱していた。

この散乱した本や資料は、片づけなければと頭ではわかっているのになぜか手をつける気になれず、手をつけるまで1ヶ月ぐらいかかった。震災後の私はやっぱり、かなりおかしかった。みんなもおかしかったけど。

まもなく計画停電がやってきた。私の風邪はひどかったのだけど、電気が使えない時間帯は暖房なしで寝るしかないし、余震の緊張でよく眠れなくて身体が休まらないし、温かいものを飲み食いするにはガスで温めないといけないのですごく大変だしで、治るまでにそれから二、三週間かかった。

母は数日のうちに私にひどく絡むようになった。繰り返し津波の映像を見ている母に、「つらいから変えてほしい」と言うと怒る。原発の状況はどうなのか、水は、食べ物は、車のガソリンは、と、彼女が私を一日中追い回し、半分妄想混じりで延々と問い詰めるのに、ほとんど声の出ない喉で必死に対応していたらついに声が出なくなってしまった。それでもしつこいから、苦肉の策で筆談にしたら、なぜか「お前はなんて冷淡なんだ」みたいに激怒する。どうしろって言うんだよ。

計画停電は本当に心細かった。街が芯からシンとするのだ。聴覚過敏のある私は、昔から「街には『うなり』がある」と感じてきたのだけれど、その「うなり」は、私たちが使うそれぞれの電化製品が出すわずかな通電音が無数に積み重なったものなのだと、そのとき初めて気づいた。

犬や小鳥の鳴き声ばかりやけに響くところへ、ヘリの音が聞こえてくると思ったら自衛隊だった。外を歩く人も、通る車もない。

もしかしてこのあたりの人はみんな死んでしまって、生き残っているのは私と母だけで、自衛隊のヘリは私たちに気づかずに通り過ぎていくところなのかもしれない、私たちがその情報を知るすべがないだけで…… 頭の中にはスキータ・デイヴィスのThe End of the Worldが響き、原爆で滅んでいく世界を描いた絵本『風が吹くとき』の光景がよぎる。

このときのことをはっきりと作品にまとめるまでには、結局5年ぐらいかかった。以下の漫画だ。

震災数日後 〜 1週間後

計画停電はくるわ、買い物に行っても物流が途絶えていて生鮮食料品が入ってこないわで、どんどん気が滅入ってくる。

みんなの役に立つ情報を拡散しなければ! と思いたち、幸い覚えていた、鍋でごはんを炊く方法を拡散したり(実家では電気炊飯器の導入が遅く、かなり長いことごはん鍋でごはんを炊いていたのだ)、イモ類や粉でもちを作る方法なんかを拡散した。

夫(後述。震災の2ヶ月後に駆け落ち、現在に至る)によれば同じ時期、私は「みんな気づいてないかもしれないけどスーパーの冷凍食品コーナーで売れ残ってるパイシートを巻いて焼けばクロワッサンになるよ!」とか書いていたらしく、夫はいたく感心したそうだ。
(ときどき言われてはうっすらと思い出すのだけど、しばらくするとまたすっかり忘れてしまう。震災前後半年ぶんぐらいの記憶は分厚いヴェールの向こうにあるような感じで、誰の記憶だったか判別がつかなくなってしまうのだ。これも解離の症状だろう)

夜は余震が気になって眠れないし、精神安定剤はもしものときのことを思うと飲めない。父と兄も含め、誰が飛んできて助けてくれるわけでもない。助けを求めると、「大した影響はない」「お母さんに優しくしてあげなさい」と、政府の発表のようなことを言われる。私がTwitterに張りつくぐらいしか、多少信憑性のありそうな情報を得る方法もない。母は家庭内ストーカーのように私を追い回し、トイレットペーパーを買ってこい車にガソリンを入れてこいと数時間粘着するし、赤ちゃんのいる近所の家に、「きれいな水が余っていたら分けてくれ」と頼みにいったりする。私は恥ずかしくて申し訳なくて、同時に、「この家から助けて」と言いたくて、言えなくて、死にそうだった。

心身が緊張しっぱなしで、ほっとできる瞬間がまったくなかった。それで、遺伝的にほとんどアルコールが飲めないのに、心臓がバクバクしてくるぐらいまでお酒を飲んで、少しだけでも緩むことのできる時間を作ろうとしていた。そうして緩んでいるすきになんとか少しでも眠る。お酒以外に、生活にまったく救いがない。アルコール依存症になる人の気持ちが少しだけわかったような気がした。

こんな生活であまりに息が詰まるし、Twitterによれば経済も回さなきゃいけないしで、ある日ひとりでサイゼに行ってきたら、母は「いまみんな我慢してるのに不謹慎だ」と、いわゆる不謹慎厨の典型みたいなことを言う。知るかよ。どうしろって言うんだよ。

私の時空のつながりは、震災の前後でブツッと永遠に断たれてしまったような感じがしている。私はそれなりに生きづらい半生を送ってきたけれど、それでも、海岸の風景がまったく変わってしまうほどの津波が起きて万単位の人が死んだり、原発がメルトダウンして国にもどうにもできないような状況になったりと、「国じたいがどうにかなってしまう」ような恐怖を感じさせられたのは初めてだった。私自身は生きづらくとも、日本に住む人たちの日常は、おおむね安全に豊かに続いていくものだろうと思っていたのに、その前提が崩れてしまったのだ。

節電の呼びかけで薄暗くなったスーパーやドラッグストアの棚に、「贅沢濃い味」とか書かれたポテトチップスの袋ばかり山のように売れ残っているのを見て、「私たちはいったいなんの幻影を見ていたんだろう」みたいな気持ちになった。

ポテトチップスにどんな贅沢な風味がつこうが、私たちの幸せには本来なんの関係もなかったのかもしれない。私は、水のしたたるような新鮮なサラダや、インスタントでない、手作りのあたたかいスープが食べたかった。喉から手が出るほど。

震災1週間後

日を追うごとに増えていく死者の数。こんな人だった、あんな人だったという報道を見ながら、私は「こんな立派でまともな人が死ぬくらいなら、単に食って排泄するしかできていない私が代わりに死んだほうが、私はなんぼか世の中の役に立てたのではないか」という気持ちに襲われるようになった。

けれど、残された人たちの悲しみ、これからの生活の大変さを思うと、私のような、家族も親類も友人も誰も死なず、家も食い扶持も(親の金だけど)無事に残った私のような者が、こんな感傷に浸るのはおこがましいにもほどがあった。自分を「幸運にも少なくとも物理的には無事に生かされているからこそ、こんなことを考えられる立場の者」だと思うと、彼らの死や苦しみを思って泣くのさえ申し訳ないような気持ちになった。それで、泣く方法も、胸を痛める方法もわからなくなった。人間として途方に暮れた。

心の落としどころがどこにもないところへ、計画停電は容赦なく来る。かえってなんともいえず静まった気持ちになってしまい、ただぼうっと過ごしていた3月18日の深夜、Twitterで相互フォローだったある男性から、突然DMがきた。

「あなたがフッと死んでしまいそうで、気が気でない」と言う。生きる力がまだ残っている人は、死にたいとか言っていてもどこか力を感じさせるものだけれど、今のあなたのツイートは、静かなんだけれど、その力みたいなものが消えている。どこがどうとはうまく言えないけれど、ともかく心配だ。どうか生きてほしい……

私はまさにその夜、「このまま朝が来たら、今度こそ私はきっと死んでしまう」みたいな感覚に襲われているところだった。死にたい、という意志ではなかった。「ろうそくがふと消えてしまうように、私は消える」と確信していた。

あの感覚がなんだったのか、明確には言えない。絶望だとかなんだとか、ひとことではどうしてもうまく言えない。それでなのか、なんにでも慎重派な私にしては本当に例外的に、後先を1ミリも考えることをせず、発作的に彼との通話を希望した。彼の言ったのは、だいたいこういうことだった。

あまりにつらそうで見ていられない。一日二日でいい、僕のところに逃げてきてください。なんならずっとでもいい。生半可な気持ちで言ってるのではありません。がんばって一生食わせます。もしよければ結婚しましょう。

結局、私はとりあえず死なないで済んだ。

2ちゃんの定型文みたいで申し訳ないけれど、このときの、危ういまでに心優しく、行動力のありすぎる男性がいまの夫だ。けれど、私が彼のところに身を寄せるまでには、それから2ヶ月の時間が必要だった。

震災1ヶ月後

千葉県ではなんだかんだで意外と普通に4月が来てしまった。私は、世間でそこそこ普通の日々が回されつつあることになにか納得できない気持ちのまま、鍼灸マッサージ師養成の専門学校に通い始めた。朝起きて授業に間に合うように通学し、夜になれば寝るという、10数年ぶりの「まとも」な生活をこなしながら、もともと悪かった精神状態が震災を機にいちだんと悪くなった母の相手をするのは本当に大変だった。

疲れきって帰ってきて、授業の予習復習もしなければならない私を、家じゅう追い回して妄言をぶつける母。トイレやお風呂、自室で寝ている私の枕元まで躊躇なく侵入してくる。なんとかして眠ろうとイヤホンや耳栓をして寝ているのを、暴言をぶつけながら力づくで引っこ抜く母。自室のドアの前に重たいものをたくさん置いてバリケードを築けば、ドアの向こうで延々と騒ぐ。時刻は午前2時とか3時とかだ。こういうときの母は完全に目が据わっている。

本当に勘弁してほしい。こちらが気がおかしくなりそうだ。

壁際に追い詰められて、据わった目で小一時間妄言をぶつけられていると、発作的に母の首を締めてしまいそうになる。それをありったけの理性で抑え込もうとすると、あまりのストレスに全身の血が逆流したようになって、目はチカチカ、頭はクラクラ、顔は燃えるようで、手足は氷のように冷たくなる。脂汗が出る。その場でしゃがみ込み、激しい動悸と呼吸が落ち着くまで待つ。

測ったことないからわからないけれど、たぶんこういうときはありえないような高血圧になっていただろう。一度こうなってしまった日は頭が真っ白になり、身体は虚脱したようになってしまって、ぼちぼち回復するのに数日かかった。

余震がきたり、母の特有のまとわりついてくるような声を聞いたりしただけで呼吸が乱れ、過呼吸のような状態になることも増えた。

こんなことはあまり長く続けられないと思った。続けば、近いうちに私が「憤死」するか、私が母を殺して家に火を放って自殺するか、母が私を殺すか、互いに殺しあうか、じゃなかったら少し先に、私が血管系の疾患で突然死するかだろう。あまりのストレスは実際に人を殺しうるのだと体感する日々だった。

夫(当時は遠距離恋愛相手)とは、すぐにでも逃げてこいとせっつく彼を、私が「3年がんばれば私は鍼灸マッサージ師の資格がとれるから」と押しとどめている状態だった。

その後、そんな悠長なことを言っていられない状況が訪れる。

震災2ヶ月後

5月の前半が私の誕生日だ。私のことを「大好きだ大好きだ、愛しくて愛しくて大事でたまらない」と言い募る母が(本当に気持ち悪かった)、その私の誕生日をすっかり忘れて半日妄言をぶつけてきたときには、正直絶望した。

そのことを夫(当時遠恋)に話すと、かわいそうだ、義子さんがかわいそうだ、とぽろぽろ涙を流して泣いてくれた。日々のあまりのおかしさにわけがわからなくなっていた私は、半ば他人ごとのようにその様子を眺めていたけれど、私は彼の声を聞いているときだけ呼吸できるような、彼だけが私のまわりで確実にこの世に生きている人間であるかのような気持ちになった。私も母もまるで幽霊かなにかみたいだったから。

まもなく政府が、「やっぱり原発メルトダウンしてました、えへへ」と発表した。私の実家付近が、放射線量の比較的高いホットスポットというものになっていることもわかった。

同じころ、ついに母が暴れた。そうでもしないと平気で侵入してくるからと、お風呂のドアに鍵をかけて入っていた私に、母は激怒した。ドアをドンドンガタガタと揺さぶりながら、「なんてひどいことをするの! 壊してでも開けるよ!!」と叫んだのだ。

すべてが限界だと思った。自分のしてきたすべての辛抱が馬鹿らしくなった。夫に「やっぱりあなたのところに逃げます」と伝えたのが確か5月11日。ほぼ同日、通っていた精神科の主治医のところを予約なしで訪ね、通っていたカウンセリングセンターにも電話をかけて、事情を説明し、判断を仰いだ。

どちらの先生にも「そこまで言うなら彼のところに行きなさい、ただし、今まで我慢していたのだから、1週間はこらえて、よりよい結果のために準備の期間をとりなさい」と言われて…… というか言わせて、駆け落ち(正確には転がり込み)は1週間後の5月18日に決行となった。

なんだかんだで無事(?)に予定どおり駆け落ちが決行された。空港から彼の家に向かう途中に立ち寄ったパーキングエリアで、自販機などにこうこうと明かりが灯っているのを見て、「ああ、こんなに遠くに来たんだ、ここには日常があるんだ」と思った。

安心するとともに、「関東東北のみんな、私だけ安全なところに来てごめんね、私なんか家が崩れたわけでも誰が死んだわけでもないのに」という、罪悪感のようなものを感じたのを覚えている。

この罪悪感が抜けるまでには数年がかかった。というか、この罪悪感は今でもわずかに残っている。むしろ、それをなんとかいなすために今これを書いていると言っていい。突き詰めればこれは、誰かが死んでいるのに自分が生き残ったこと自体への後ろめたさなのだろう。

こうした「生き残ったことへの罪悪感」「回復していくことへの後ろめたさ」みたいなものは、トラウマ性疾患の症状のひとつとして珍しくないものらしいが、仕組みを知ったとして、難儀なものは難儀だ。

駆け落ち当日の詳細、夫との結婚生活の詳細については、まもなく発売になるこの↓本に書いている。本では、母との関係性や、私のトラウマ治療の話をメインに書いているが、紙面の都合上書けなかった震災がらみの詳細を、スピンアウトとしてこの記事に書いている形だ。

震災4ヶ月後

それから秋ぐらいまでの記憶はとても薄い。私はよく、ストレスがかかっていた時期の記憶が薄くなることがあるけれど、この時期の記憶の飛び方は尋常でない。いまでもこの時期のことは、夫から詳細に「ああだったでしょ、こうだったでしょ」と教えてもらわないと思い出せないし、教えてもらってもいまいち思い出せないこともある。ともかく、具合が悪くて寝込むばかりの私を、夫が献身的に世話してくれていたとのことだ。

というわけで詳細を思い出せないのだけど、私はまだ満身創痍だったのに、なぜか働かなければと思ったらしく、初夏には近所の整骨院でバイトしようとした。

面接で、母のことをはしょって、「震災でこちらに移ってきた」と説明すると、その整骨院のボスがちょっと大げさなくらい同情的な表情になり、採用となった。

けれど、大量の患者さんを捌くタイプのその整骨院は、私の特性にまったく合っていなかった。ケアレスミスを頻発させてしまう。周囲が機械の音で騒がしいうえに言葉のアクセントも違うから、とっさに何を言っているのかわからない。何度も何度も聞き返し、聞き返してもわからないことさえあって、ボスや、おじいさんなんかをしょっちゅう怒らせてしまう。

すぐに「これだから高学歴の女は使えない、震災で逃げてきたっていうから善意で採ってやったのに、感謝が足りない、横着、怠け者、お高くとまってる」と言いたい放題言われるようになった。ある日、出勤しようとしたらひどいめまいに襲われて、そのままその整骨院は辞めざるをえなかった。

夫(カトリック)に連れられて近所の教会に行くと、おじいさんおばあさんたちが興味を持って集まってくる。いろいろはしょって「東日本大震災でこちらに移ってきました」と言うと、なんど千葉県からだと言っても「ああ東北の震災で!」「東北の方なのね!」と言われてしまい、「関東も被災地なのにな……」という思いを押し込めることになった。

実家のあたりがホットスポットで…… と言ったらその瞬間に周囲の5人ぐらいがごくわずかながら反射的に身を引いたのにも気づいてしまい、関東との、震災にまつわる感覚や知識の違いに強い疎外感を感じることになった。

震災6ヶ月後

夏になると、夫が自分の出張のついでに何泊か関東に連れていってくれると言う。

母はまだしも、父には勘当されている状態だったので、もちろん実家には戻れないし、戻りたいとも思わなかったけれど、慣れ親しんだ関東が恋しくてたまらなかった私は、大喜びで連れていってもらった。

見知った電車や、標準語の響き、空気の感じなどを久しぶりに堪能した。でも、節電が強く叫ばれている関東では、街のあちこちで冷房や照明が抑えられていて、暑かったり薄暗かったりした。すれ違う人たち、特に女性はなんとなく疲れて顔色が悪いように見えて、それもどうも照明が落とされているからだけではないように思えた。

私は、移住先ではたった一人の「被災者」として孤立を感じ、関東に戻ったら戻ったで「他地方に出た者」として孤立を感じた。同時に、先に書いたような、「私だけ逃げてごめん、助けられてごめん」という罪悪感にさいなまれるのだった。

震災1年後

震災の年の12月に夫と入籍した私は、このあたりから少し体調がよくなり、多少の家事などができるようになった。

2012年3月、教会での東日本大震災1周年記念のミサに、私は準喪服のつもりで黒づくめのかっこうで行ったけれど、そんなテンションでいるのは私だけで、浮きまくった。「東北の震災」「東北のみなさんのために」という言葉を聞くたび、やはり腹が立ったり罪悪感を感じたりと、心の中は七転八倒だった。

震災1年3ヶ月後

震災1年後の初夏。1年をかけて、関東の節電の意識がこの地方にも伝わってきたようで、こちらの地元の人たちが急に、「この夏は節電を」と言いだすようになった。

「当事者でない人は語ってはいけない」などと言うのはよくないとは頭では思いつつ、福島の原発や関東東北の物流とは関係ないところに住んでいる人たち…… あの計画停電や物流断絶の心細さを体感したことのない人たちの言う節電は、どうしても手慰みやファッションのようにしか思えなかった。どうにも制御しがたい怒りに襲われ、Facebookで長文を書いたりして、気づけば家事そっちのけで夕方になっていることが増えて、「せっかく体調がよくなってきたところなのに、まずいな」と思った。

同時に、いままではなかった、震災関連のフラッシュバック症状が起こるようになった。起きていても頭の中が支配されるし、寝ていれば悪夢にうなされる。ほんとうに急なことだった。

そのときすでに、「PTSD症状は当面の心身の安全が確保されてから出はじめることが多い」という知識はあったので、ああ、私は安心しはじめているんだな、とは思ったものの、ともかく症状がつらいのには難儀した。

それで夫に頼んで、近所の心療内科に通わせてもらうことにした。たまたまこの先生が発達障害の診断もできる人だったので、発達障害(高機能自閉症)の診断ももらい、発達障害用の投薬をしてもらった。薬がよく効いて、日中テンポよく動けるようになり、いろいろな支援につながって…… それから7年ほどを経て、今に至る。

このあたりの詳細は、先にも紹介したこの本に書いている。

ものすごく言いづらいこと

悠平さんのどこまでも素直で誠実な語りに背中を押されて書き始めたこの語りだから、最後に勇気を出して、いちばん言いづらいことを吐露しておこうと思う。

私は、東日本大震災がなかったら、おそらくいまごろ、死んでいるか、社会的に死んでいた。良い悪いは別として、事実として。

私は実家において、発覚の遅れた自分の発達障害と、父方の祖母の常軌を逸した性格(たぶんサイコパス)、実家からの父の遁走、母の精神疾患、という状況にさらされ、長く無支援状態で苦しんでいた。

家庭の中はめちゃめちゃ。ゴミ屋敷、うっかりしていたら誰に陥れられるかわからないという互いの疑心暗鬼。エアコンは壊れたまま、電球は切れたまま、誰もまともな掃除をしない、というインフラの破綻。

けれど実家は外側から見れば、お父さんは出世、お母さんはインテリなキャリアウーマン。娘さんはいい大学を出てて、礼儀正しく活発な息子さんは出世コースで海外赴任。見上げるような角地の広々とした敷地に家が二軒、一方は瀟洒な輸入住宅。

私はずっとずっと、そう、短く見積もっても20年ぐらいずっと、誰かに助けてほしくて、最終的には死ぬか殺すかみたいなところにいて…… でも、そのことに、周囲は気づかなかった。うっすら気づいていた人も少数いたのかもしれないけれど、思いきって手を差し伸べるまでではなかった。

探せば支援してくれるところはたくさんあるなんて、当時の私は知らなかったし、刻々と迫ってくる母から逃げまどうだけで…… すでに二次障害でボロボロだった私には家の外に逃げる力はなかったから、あのガラクタとゴミとホコリにまみれた家の中で母から逃げ惑うだけで…… 精一杯だった。

それが、震災をきっかけに私は、産まれて初めて「助けが必要な人」として他者に認知され、実際に助けてもらえることになった。

何万人も死に、いままでもこれからも多くの人が苦しむあの震災について、「起きてよかった」だなんて、私は、いままでも、これからもいっさい言う気がない。そんな言い方は私がもっとも嫌悪するものだ。

けれど…… 起きたことを事実ベースで、時系列で、論理的に考えれば、私の少なくとも一部分は、震災が起きたことで救われた。私は、震災が起きたことで、あの家を出ることができた。自殺しないで済んだし、母を殺さないで済んだ。

震災は、私の家庭に一種の「底つき」をもたらしたのだと思う。

底つきとは、アルコール依存症などの依存症の文脈で言われる、「依存症の症状により生活がどうにも立ちゆかなくなり、依存症でありつづけるわけにはいかなくなる、人生最悪の体験」みたいなことだ。以前は、依存症からの回復には底つき体験が必須であると言われた(今は違う解釈も出てきている)。

社会を揺るがすような大きなできごとは、社会を構成する各家庭、各個人にも少なからぬ影響を与える。それまでギリギリのバランスで保たれていたような状況に、よくも悪くも揺さぶりがかかるのだ。

震災後しばらくして、震災で直接には誰も死ななかったけれど、震災のせいで家族が崩壊したとか、誰かがアルコール依存になった、誰かが自殺したというつらい話を聞くようになった。いっぽうで、皆が家族や生活のありかたを問い直して、家族が良い方向に変わっていった話や、人生の意味を考え直した人が、やりたかったことに思い切って着手した、という話も目にするようになった。

私のケースはたまたま非常に幸運なほうだった、ということで、それは良いにしろ悪いにしろ事実にすぎない。誰が正しかったからとか、誰が悪かったから、ということもいっさいない。単にこれらは、「世の中には、ある種残酷な偶然の順列かける組み合わせで、あらゆることが起こりうるのだ」という話でしかない。

震災のせいで何が起ころうが起こらなかろうが、誰が得しようが損しようが、良くも悪くも、私のせいでもあなたのせいでもない。私もあなたも、誰かに対して罪悪感を持つ必要はない。

誰かが死んだこと、誰かがつらい思いをしたこと、それはまごうかたなき悲しみだ。けれど同時に、あなたがそれでもこうして生きていることは、少なくとも私にとって、まごうかたなき喜びだ。

あの震災をめぐって起きたあらゆることは、すべて誰の責任でもない。あの震災でまったく傷ついていない人、良くも悪くもまったく人生を変えられていない人なんて、ひとりもいないはず。誰しもが、震災後の時空をその人なりに、もがきながら、あるいは喜びながら生きている。

私やあなたが生きている「だけで」すばらしい、とは思わない。でも、私やあなたが生きている「ことは」すばらしい、と思う。

あなたは、罪悪感なんて持たなくていい。そして、あなたが生きていて、私は嬉しい。

(現在22時半ごろ。断続的に13時間以上書いていたことになる)

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