見出し画像

"知る"行為と意味の使用説

"知る"という行為は,脳内に情報を知識として取り入れるというように単純に捉えられる。これはわかりやすい捉え方ではあるが,当たり前すぎる気もする。本当はこの捉え方は曖昧で,もう少し面白く捉えられるのではないか,というどうでもいいことを考えてみた。

言語学や脳科学,心理学など学際領域も含め認知科学といわれる分野では,それぞれ"知る"ということをユニークに解釈している。その中で,私は哲学(特に認識論)の解釈が気に入った。言語学にも興味があったので,言語哲学という分野で解釈してみよう。

言語哲学で有名なウィトゲンシュタインは,意味の使用説というアイデアを生み出した。この説は,「使用こそが意味」といったアイデアである。

例えば,食卓の醤油を取ってもらうときには,「醤油取って」と頼めば意味が伝わる。これをさらに短くすると「醤油」の一言でも伝わる。伝わらないこともあるが...... "醤油"という言葉には,名詞なので当然依頼の意味はない。しかし,ここでの「醤油」の一言には依頼の意味があった。つまり,依頼者が"醤油"の意味を決めていたということになる。

この説はなかなか画期的で好きだ。 ただ,語用論に似ているので私はよく混乱している。

余談だが,道具の使用法などには,正しい使用法が決まっているが,これは定義の意味である。間違った使用法は定義でない意味である。つまりは道具の意味も使用者が決められるのである(「道具の意味」=「道具の使用法」という感じ)。


この形式をとれば,"知る"ということもシステマチックに理解できそうだ。本当にどうでもいいことだが,私には面白い。当たり前なことは形式化して,方法論に拡張できたりもする。私はこれを「方法の基礎」と呼んでいる。


"意味を知る"を"名前を知る"にして考える。Aさんの名前をv,Bさんを聞き手としておく。 BさんはAさんに名前を教えてもらう。このとき,vがBさんの知識になる。

しかし,このときBさんはAさんを知らなかったと言えるだろうか。まず,Bさんは少なくともAさんの存在は知っていなければならない。
名前を知らないBさんの知識状態はx:Aというように記憶されていると私は考える。これは,名前は知らないが存在は知っている,ということである。名前vを教えられたとき,このxにvというラベルを与えてv:Aになる。

"与える"行為はAの偽名wを知っても働く。単にw:Aと間違って記憶されるだけだ。

私が言いたいのは,"知る"と同時に"与える"行為が働いているということである。最終的に,会話はGive and TakeのGiveとTakeを同時に行っている,という意味不明な結論にたどり着いた。




無理やりシリーズ化を試みてみましたが,続編を書く予定は未定です。考えているときは楽しいですけど,書いていてそんなに楽しくはないですね。

$${\cfrac{\cfrac{}{A\vdash A}~~~~~~~~\cfrac{\cfrac{\cfrac{\cfrac{\cfrac{}{C\vdash C}}{C,D\vdash C}w}{C\land D\vdash C}~~~\cfrac{}{B\vdash B}}{C\land D,C\to B\vdash B}}{C\to B,C\land D\vdash B}e}{\cfrac{\cfrac{A,C\to B,A\to(C\land D)\vdash B}{C\to B,A\to(C\land D),A\vdash B}e}{C\to B,A\to(C\land D)\vdash A\to B}}}$$


こんなのばかり書いても面白くないですよね。私は面白いですけど...... ちなみに未完成の下書きは今8記事分あります。滞らないように気をつけます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?