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いろいろ知りたい人と深く知りたい人

私はとにかく社交が苦手だ。人と会話すること自体はさほどでもないが,社交辞令というものには理解に困るものがある。その中でも,冗談をあえて言って場を和ませることは私には到底できない。

その大きな要因としては,1人で興味のあることを学ぶなどといったことが好きすぎるということがある。その一方で,深い話が嫌いだという人もいるようである。シリアスな話や重い話は笑える要素が少なくて,嫌いな人は嫌いだろうと思う。


私の友人には深い話が嫌いだという人が多い。嫌いとまでは及ばずとも,確かにそのような人が私の周りには圧倒的に多い。

その友人に私が学んでいる言語学などの話をしてみると,興味深く聞いてくれはするが,どことなくつまらなさそうな感じが伝わってくる。おそらくこの"興味深く聞く"ということも社交辞令的なものではないかと思う。

そのような学問的な話を続けるうちに,「すごいなぁ,私にはわからない」などと言われるようになって,その後すぐに話題が変わるようなことが多くなってきた。やはり学問的なことには興味がないのだろうか。ところが,そういうわけでもなかった。


友人にはよく言語学関連の話をしているが,あるとき論理学の話をしてみたことがある。自分の専門ということもあり,論理学のことはあまり話したことがなかった。だからそのときは,「いつもと違う感じだ」というように興味を持ってくれた。

私はこのとき,"新規性"を感じてくれたのだと思った。"新規性"というのは,今まで話してきたこととは一見まったく違うように見えるということである。

私自身,言語学の話も論理学の話も同じことのように話していた。本当は深いところでつながっている話だからだ。しかし,"新規性"に着目すると,表面的にはかなり違っている。

私の友人は,「論理学のほうが言語学よりも面白い」と思ったのではなく,「論理学はいつもの言語学の話よりも新鮮だ」と思ったのであった。つまり,学問的な話に興味がないと解釈したのは私の間違いであって,本当はいろいろなことが知りたい好奇心旺盛な人だったということである。


私とその友人は,ある意味対立しているとも考えられる。深く知りたいか広く知りたいかというように。しかし,どちらも"知りたい"ということは共通している。

好奇心はどちらにしてもあるので,深く知りたいという人も同時に広く知ろうとしているのかもしれない。"知りたい"と"好き"の差についても,また,"知る"という行為に付随するものと,それに伴う性格などについても述べてみたいと思うのである。また次回。

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