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見ず知らずの人を二回目の死から救った話

思い出話をしようと思う。
明るい話でもないし、他人のプライベートに関わる話なので誰かに話したこともないのだけど、アウトプットしないまま忘れていくのはあまりにも惜しい、そういう話。

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大学2年生から4年生まで、大学の卒業アルバムを作る仕事をしていた。
他の大学ではどういう体制なのかあまり知らないのだが、少なくとも母校では卒業アルバムの撮影・編集・販売は学生団体がやっており、写真部の先輩から誘われ、私はそこで働いていた。
(当時はあまり大きな声では言えなかったが、学園祭の撮影時などは腕章をつけてステージ最前に陣取れる上にお金も貰えるので、割のいいバイトだった。)

個人写真の撮影や、サークルの集合写真の撮影は後期に集中しており、前期のうちは過去の写真のタグ付けや、前年度のアルバムを予約したのに取りに来ていない人への連絡などそういう雑務がメインで、週に2回だけ事務所(部室棟の一角にあり、なぜか誰も部室とは呼ばなかった)に誰かがいて来客の受付をやることになっていた。

その電話がかかってきた日は、私が一人の日で、確か教授陣の撮影日程の調整メールを打っていた。日付までは覚えていないが、2011年の7月のことだ。

「つかぬことをお伺いするのですが、1986年の卒業アルバムはまだ販売しておりますか?」

松田(仮名)と名乗った女性はそう切り出した。

「実は、卒業アルバムが津波で流されてしまい、それでHPを見たら『交換・譲渡対応します』と書かれていたもので…」

2011年の3月、東日本大震災による津波が東北沿岸を襲った。最初のお問い合わせは2010年度の卒業生からで「部屋が水に浸かってしまったので交換してもらえないだろうか」と相談を受け、在庫から新しいものを発送した。同じようなことで困っている人もいるだろうということで、HPに災害の被災者の方へとメッセージを載せていたのだ。

「在庫は確認してみないと分かりませんが、そのような事情であれば、無償で対応させていただきます」

電話番号だけ聞いてから、一度電話を切り、倉庫に向かう。
卒業アルバムは外部の人には売れない性質から、基本的には受注生産をしているのだが、学生当人は欲しいと思わずとも両親や祖父母は欲しがるという性質も兼ね備えているので、卒業式で当日販売ができるよう受注量よりも300冊程度多く印刷するのが恒例となっていた。とはいえ、大抵の場合は完売しないため、何年分もの残部が倉庫の中には積み重なっていた。

事務所を出る前に1986年の表紙の色を確認してくればよかったな、などと考えながら、積み重なった山をかき分け、昔のアルバムのエリアを探す。
HP掲載の沿革によれば戦前から卒業アルバムを制作しているだけあり、1950年代のものから過去の在庫が並んでいる。一冊一冊保護用の箱から取り出しては背表紙の年代を確認しては戻す作業を繰り返し、ようやく見つけた、1986年度の卒業アルバム。
しかし運悪く、他の年のものは数冊ずつあったが、その浅葱色の装丁は1冊しか見当たらない。これを発送すれば、在庫ゼロの状況になってしまうのではないか。独断では判断しかねたので、会長に電話をかける。

「震災対応で昔のアルバムを欲しがっている人がいるんですが、在庫確認したら、あと1冊なんですけど、これ送っても大丈夫ですか?というか、購入履歴も残ってないくらい昔のなんですけど、対応しちゃっていいですか?」

話しながら、マニュアルでは購入履歴から住所を確認することになっていたな、と思い出して矢継ぎ早に質問をする私を会長は一蹴した。

「全年度分、大学図書館に献本してあるから、そういう心配なら大丈夫だ。うちの在庫は、元々落丁なんかのもしもの時用に交換対応に残してあるもんで、今がまさにそのもしもの時ってやつだ。発送対応までしていいぞ」

かっこいい。普段人物写真も風景写真も全部同じフォルダに突っ込む先輩と同じ人とは思えない。
会長のお墨付きも得て、アルバムを保護用の箱に戻した私は事務所へと戻り、先ほどの番号へとかけ直す。

「先ほど電話をいただいた件なんですが、在庫ございましたので、対応可能です。どちらのご住所にお送りすればよろしいでしょうか?」
「よかった。ただ、すみませんね、先に中身だけ確認してもらえるかしら、兄の写真が載っているか不安で…」

兄?てっきり卒業生本人かと思っていた私は少し面食らう。

「津波で兄の所縁のものも全て流されてしまって、せめて何か写真だけでも、うちの母のために、と思っていてね、卒業アルバムは家にあったと思うんですが、兄の写真があるかまでは私は見たことがなくて…」

お兄様は今どちらに、とはさすがに聞けなかった。亡くなったのだろう。
震災のニュースは何度も見ていたが、震災で直接被害に遭った人の話を聞くのは初めてで、どう対応するのが正解なのか戸惑いながらも、アルバムを開く。

「個人写真のページは学科ごとに分かれているんですが、何学科だったか分かりますか?」
「農学部だったとは思うんですが、すいません、学科まではすぐには…」
「いえ、大丈夫です、農学部なら学科も少ないのですぐに見つかると思います」

農学部のページを開く。よかった、ページ数もそんなに多くない。

「失礼ですが、お兄様のお名前をうかがってもよろしいですか?」
「ええ、黒木一郎(仮名)です」
「黒木様ですね、少々お待ちください」

今と違ってすべて白黒写真だが、五十音順なのは今と同じでよかった。
農業生物学科、倉田、小林……いない。
農芸科学科、今と学科名が違うな…、楠木、黒田…いない。
農業工学科、加納、桐田、黒木、いた、黒木一郎、この人だ。

「あ、お写真ありました、黒木、一郎さん」
「そう、よかった、よかった。じゃあ、母の住所を伝えますね」

心底安心した声を聞き、ああ、そうか、私が今見つけた写真はこうも確かに目の前にあるのに、この写真に写っている人はもうこの世にはいないのだ、と不思議な感覚になる。

住所を書きとめ、「お代はどうすれば」と気にかける松田さんに「無償で大丈夫です、今日にも発送します」と告げて電話を切った。送料は払うことになるが、経費の封筒から500円程度出しても、会長も何も言わないだろう。

急いで梱包に取りかかり、レターパックの宛名書きをしながら我に返る。
なにか哀悼のメッセージくらい同封した方がいいんだろうか。しかし、事情も分からないのに、踏み込んだことは書けないし、かといってモノだけを送るのではあまりにも無骨だし。
思案した結果、便箋に松田様から連絡をいただいて送る旨と、無償交換対応の一環であり、代金はいただかない旨とを書き記し、連絡先が分かるようにパンフレットだけ同封してボール紙の封を綴じた。

郵便局で手続きを終えた私は、なかなか苦労して作っているアルバムだけど、他人様の役に立てるのだなあ、と感慨に浸りながら帰途についた。


さて、ここで終わっても綺麗な思い出ではあるのだが、この話には続きがある。
8月上旬、バカみたいに暑い日差しの中でグラウンドを行脚して、運動部の集合写真(ユニフォームを着てそれぞれのグラウンドなり体育館に集まってもらう)を撮り終わり、事務所に向かう私たちを部室棟の管理人が呼び止める。

「あんたら向けにお中元が届いとるよ」

お中元?季節ではあるが、デザイナーさんにはこちらが贈る立場だし、印刷会社の人はいつも直接持ってくるし。

「部屋に誰もおらんときはちゃんと鍵を返していかんかね」

管理人の小言を聞き流しながら受け取った箱は確かによく見るお中元の菓子箱の見た目で、ただし、熨斗の代わりに封筒が付いていた。

「黒木…?誰かこれ心当たりあるか?」

差出人を読み上げた先輩に訊かれ、ハッとなる。

「あ、それ、前私が対応した人です、震災で、25年前のアルバム送って、それで」

事務所について機材を片付けるのもそこそこに私は、封筒を開けた。

達筆なペン字でびっしりと埋まった3枚の便箋にはたくさんのことが書かれていた。

一郎さんが、東京の大学に行くために必死に努力をしていたこと。
無事に現役で受かり、家族の誇りであったこと。
しかし、卒業後すぐに、事故に遭い亡くなってしまったこと。
長い時間をかけて、その死を乗り越えたと思っていた矢先に震災で全てを流されたこと。
遺影を持ち出す間もなかったことを悔やんでいたこと。
大きく写っている写真もほとんどなく、打ちひしがれていたところに卒業アルバムが送られてきたこと。
娘さんから事情を聞き、対応してくれたことに感謝をしていること。
そして、できれば、若者である私たちはたくさん写真を撮って、それを親や家族と共有してほしい、ということ。

たぶん、1人で読んでいたら号泣していただろう。
何とか、涙ぐむ程度でこらえながら、先輩に話す。

「アルバム、作ってて、よかったです」
「ああ、特に昔は、今みたいに気軽に写真を撮れたわけじゃないからなあ」

箱の中身はごく普通の果物ゼリーだった。
冷蔵庫で冷やしてからにすれば、という先輩の制止も聞かずに食べたブドウゼリーは少し涙の味がした。

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人は二度死ぬという。
死んだ時と、忘れられた時。

死ぬことはどうしても防げないが、忘れられるまでを延ばすことはできる。
写真というのは、今を切り取るものであると同時に、過去を今と繋ぐものなのだな、と感動した私は、そのあとアルバムの編集長になり、色々と奔走することになるのだが、それはまたどこか別の場所で語ることにしよう。


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