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同音異義語・異音同義語の迷宮

特にチベット語の仏教テキストでは(というか、他言語のテキストも難しくて、あまり読んでいないのだが)、
同音異義語、異音同義語がよく出てくる。

言葉を知っていることと、その場その場での言葉の使われ方を知っていれば、これはこう、それはそう、と判断できるのだが、
よく知らないと何が何を言っているのか分からない。

それぞれの言葉についても、言葉が組み合わさった文章についても、
言葉自体は知っているけれど意味が通らないという、
気持ちの悪い精神状態になる。

今は、釈尊の教えにおいて、
言葉通りに受け取って良い教えと、
言葉通りではなく他の意味に導いて理解しなければならない教えの分類についてのテキストを読んでいるので、更にややこしい。

学説によって分類の仕方は違うし、
1つの学説のテキスト中でも、同じ言葉を違う意味で使っていたりするからである。

例えば、「さとうさん」である。
さとう栄作さんという政治家もいた。
さとうみちこさんという、高校の同級生もいる。
さとうさんというケアマネージャーさんもいる。
さとうさんという名前の猫もいる。

会話をする時、互いが共通の認識を持っていれば、
「さとうさんがね、今日来てくれた。」
と言った時、何方のさとうさんが来てくれたのか、すぐ判る。

共通の認識が無ければ、「さとうさん」が何方のさとうさんなのか分からないし、
もしかしたら、相手は全然違うさとうさんを思い浮かべているかもしれない。

同じように、
「さとうさん、可愛かったよね。」といった時、
政治家のさとうさんが可愛かったのか、同級生のさとうさんが可愛かったのか、ケアマネのさとうさんが可愛かったのか、猫のさとうさんが可愛かったのか、
いろいろ想像するわけだが、

「みっちゃん、可愛かったよね。」といった時に、同窓生は、さとうみちこさんを思い出すけれど、
ともに時間を過ごしていない人々は、「みっちゃん」であるさとうさんが誰だか分からない。

こういうややこしさが、仏教テキストにはある。

唯識派のテキストの中にも、二つの真実を表す言葉がある。
「二諦」という。

「二」はそのままの意味だけれど、「諦」が真実を表す意味であるとは、すぐには分からない。普通の人は「あきらめ」と読むからだ。

漢訳をそのまま使うので、二諦とするのであるが、
その二つは何かといえば、
勝義諦(勝る意味の真実⇒究極の真実)と、
世俗諦(世俗の真実)である。

この「勝義」と「世俗」の意味の置き方に、唯識派のテキストの中では二通りあると論じられている。

一つの置き方は、
勝義=そのもののあり方として存在しているもの
世俗=概念作用で仮設されただけのもの

もう一つの置き方は、
勝義=それを対象にして瞑想修行することによって、心の汚れが浄化される空性
世俗=勝義ではない有すべて

このように振り分けの基準が違うので、一方の勝義であっても別の分け方の世俗でもあり得るし、一方の世俗であっても別の分け方の世俗ではない、ということもあり得る。

空性である勝義は、両方の勝義に当てはまる。

これはテキスト上のややこしさではあるが、似たようなことは日常生活でもよく起こる。

人が誰かに対して怒るのは、時々は単なる誤解が原因だ。
同じ言葉を使っていても、或る人にとっては冗談で済むし、
或る人にとっては心に突き刺さる一言になる。
特定の言葉に対する認識が違うから、そういうことが起こる。

逆に、何ということも無い一言が、誰かを勇気づけることにもなる。

言葉には、人の数だけ解釈がある。

同じ言葉を話していても、もしかしたら、それぞれの人が同音異義語を話しているのかもしれない。

ならばどう判断しようか?

話す人の心を感じてみれば良いのである。


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