悪夢

 これは悪夢以外のなにものでもない。どうやったって、解けない魔法。獅子に押しつぶされ、もがくうさぎども。苦楽を共にした、友人の裏切り。なにもかもが、僕に降りかかってきて、苛ませる。実に、悩ましい。
 しかし、向こうからちゃんと息をしている、いきものが現れた。人間なのか? 予測がつかない。確かに人間らしいシルエットを纏ってはいるが、このように不気味な様相を呈しているものを、果たして人間と言ってよいのか、僕は苦悩する。
「弾けてみよ」そのシルエットはまず、そう言った。「そして自身に問いかけるのだ」僕はそうしてみた。何度も何度も幾度も。すると、僕の中心から鍵が生み出され、その鍵をシルエットが乱暴に、いとおしそうに、奪い去り、瞬間、僕は扉となった。
 扉に運命はない。あるのは、悠久の果てに待ち構えている時の試練と、ドアノブの不具合だけだ。例えば辞書が辞書の意味を辞書で引けないように、扉は扉の向こうには行けない。それは、予め決まっていることなのだ。 
 しかし、だが、しかし。
 この身は扉であってそうではない。僕には手がある、足がある。もちろん知恵も付属している。
 だからドアを叩き、ゆすり、ひん剥いて、どうにか扉の向こう側へと赴けた。素晴らしい。
 まず、眼前に赤いシルクハットが登場した。そのシルクハットはステッキを携えていて、全身くれないで染まっていた。
「どこへ連れて行ってくれるんだい?」
 僕の問いかけには応えない。代わりにテッシュを一枚とりだして、それを僕に被せた。中には恐ろしいものがぶちまけられていた。そうだな、ひどく物憂げな夕方に、買い物途中の中年女性に会うくらい、おそろしい。身の毛もよだつ、とてもとても。
「止めてくれ!」
 するとテッシュは拷問をやめ、僕に囁いた。「止めて欲しければ、影をよこしな」「影だって?」「そう、影さ」
 それは大変辛い申し出だった。自分の影をこんなボロ帽子にくれてやるなんて!
 そう言ってシルクハットは地平線の薄闇の彼方に走って去った。影をポケットから少しはみ出したまま、ついさっきまでは僕のものだったのに、何たる冷血漢!悔しさに歯を鳴らして、地震をおこしてしまった。なんてこった。人様に迷惑をかけてしまうなんて。
 案の定、彼らは怒り出した。続々と家から出て来て、僕に一撃食らわそうと、今か今かと棍棒を引っさげ、憤怒の形相で僕を睨みつけている。
「ち、違うんです」釈明は果たして。
「影をすっかり盗られちまったんです。そう、あのシルクハットに!」
 人々は益々気分を害したようだ。自分たちを揺さぶった奴が意味の分からない理由をかかげ、釈明しようとしている。これが許せるか。
「ごめんなさい。許してください」
 地に穴が開くほど僕は額をこすりつけた。すると、そんな僕の無様さ、哀れさが彼らに伝わったのか、長老らしき人物が「顔をあげなさい」と優しく僕に話しかけた。
「わしらの家はほとんどがだめになっちまった」そう僕のせいだ。長老は悲しげに目を伏せ、彼らもそれにならって涙をこぼす。
「わしらはあんたをゆるさない」
 長老は、やはり悲しそうに言った。
「しかしあんたは許して欲しい」
 そう、僕は必死の思いで相槌を打つ。
「なら、あんたがわしらの住む場所を代わりにくれ」
「おやすい御用です!しばらくお待ちを。すぐに家に電話して、とびきり上等な家を沢山用意させますから」
 しかし、長老は首を横に振る。
「だめじゃ今すぐ欲しい」
「そんな無茶な!」
 僕が悲鳴を上げたって一向に許してはくれない。しかたがないので、僕の皮を彼らに差し出した。
「ありがとう」長老と彼らは、心底嬉しそうに顔をほころばせた。「あんたもこれに懲りて二度と馬鹿な真似はしなさんな」そう言って、皆家に戻って行った。
 ぽつんと僕は取り残される。サバンナの一滴の水のように。時計の秒針のように。宇宙の真理のように。ハンバーグの切れ端のように。友人の、彼らの僕に対する思いやりのように。そして僕は丸裸だ。影もないし、皮もない。どうしよう、家に帰れないではないか。ピンク色の細胞をむき出しにした、こんな僕を一体誰が構ってくれると言うのだろう。
でも、アイデアは何処かで共通していた。鋭い、感性が僕の脳を奮い立たせたのだ。
 走ったのだ。地を駆け山を駆け。海を渡り、雷鳴を裂いた。雨を蒸発させ、木々をなぎ倒す。花々を踏みつけ、生物を蔑ろにした。
 ようやく僕はライオンを見つけた。歴史も風化してしまうほど走り、ハーブの高音のように美しかった僕の声も、今では古靴のように音節を引きずる始末だ。手足は枯れ、勇気と情熱で僕はたっているようなものだった。
「ライオンさん」僕は懇願する。「見てください。酷い有様でしょう? 全て僕が仕込んだことではないのです。全て僕の所為ではないのです」
 ライオンはゆっくりとうなだれ、深くたたみ込まれ、刻まれたしわだらけの顔をこっちに向けた。
「それで私にどうしろと言うのだ」
 洞穴のような口に沢山の肉や内臓の欠片がついている。吸い込まれそうな自分を、やっとのことで思いとどまらせた。
「助けて欲しいのです」僕は懇願した。「どうか一思いにその牙で僕を食べてください」
「この痴れ者め」みるみる内にライオンの、あれほど優雅なウェーブを描いていたたてがみが逆立ち、そのあまりの鋭利さに空気は身をもたげ、苦しみぬいて死んだ。「お前はあれほどの罪を犯しておきながら、救われたいとぬかすか」その重力の眼差しを、僕はしっかりと見据える。「はい」ライオンの目が細くなる。
「よかろう」ライオンは口を開けた。「食ってやる」その時この身にようやく、開放がもたらされた。長い長い黄昏だった。まるで悪夢を見ているかのように、苦しい時間だった。ライオンの口の中で、僕は姿を変えていく。成長を遡り、一歩手前へ、一歩手前へと前進し、遂に僕は胃袋の中に納まった。居心地の良い、自室のようである。
「しかしこれは受け取れない」
 そう言ってライオンは僕の罪を外に放り出した。「こんなものは私でも食べられない。そこら辺の奴らがあらかた片付けてくれるだろう」
 そう言って。ライオンは去る。僕を残したまま、地上の隙間、影の奈落へと消えてしまった。僕はと言うと、もうどうしようもないので、そろそろ家に帰ろう、と考え始めていた。

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