言うて雨読なんてする気になれない

今は外で雨が降っている。それ以外のなにものでもない。雲があって、太陽は差してないのに明るい。

何かを言う前に天気や気候について書くのは、それが一番身近だし、誰にとっても分かりやすくて「そうだな」以外の感情がわきづらいから。天気が違っていてもあんまり怒られないし、否定もされない。何かを言う元気も勇気も無くても天気の話なら自信を持って話せるから。

わからないことが苦手だ。恐怖していると言っていいかもしれない。
物事がわからないと身動きがとれなくなる。自分の思考を疑いだし、他人の言葉を尊ぶようになる。価値基準を外部に預け出す。判断を第3者に委託する。それをごく自然に行うようになり、境界がわからなくなる。会話では推定や伝聞の文法を用いるようになり、自分の主張を忘れてしまう。会議を恐れ、仕事を恐れ、期日や納期から逃げて回り、文脈に支配される。

こんなとき、人は本を読むのかもしれない。読んだ方がいいのかもしれない。本は書かれているだけ。それを読み取るだけ。行為は簡単だ。やさしい。自分のペースでやればいい。あくまでも漕ぐのは自分だ。それを再確認できる。みんな本を読むのが好き、雨の日に本を読み、集中したりや耽けたり、自分の世界に没頭できる。

自分の世界とは?

自分の世界に疑いを持つ。自分の世界とは何で構成されているのか。空気か水か、ロゴスか、ポテトサラダか。その世界を誰が観測して学会で発表したのか。おれにわかるようにRTしてくれたのか、転職エージェントがアドバイスしてくれたか。
自分の世界がわからない。なら、他人の世界を見てみよう。それで小説を読む。俳句や短歌、詩に触れる。すべてがわからない。そうだよ、わからない。他人が自分の世界のわからなさについて書いたものがわかるわけない。愕然として書を閉じる。僕の思考も閉じる。
「何がわからないのかわからない」と昔、塾の先生によく言われた。思考を閉じると、そんなことを思い出す。あなたがわからなければ僕にもわかりません。僕について僕以上によく知っておいてくれよ、 大人だろ? そして大人になった僕は、先生の気持ちがなんとなく分かるようになっている。つまり、反省だ。あの時の先生はこんなことを考えていたんだ、ぼくはなにもしらなかった、おろかだ、と思考を閉じると内省を促される。いつのまにか、省みるようになっている。

こんなとき、僕は何をするか。本を読まず、自分の世界を恐れて、何をするか。内省と後悔、わからなさから逃れるために何をするか。

創るしかない。疑いの無いものを一から創る。安心できるものを追求して、誰にも、僕にも、文句を言われないものを創る。どこに創るか、自分の世界の中に創ることにする。大使館だ。そしたら、世界について少しだけわかるようになるのかもしれない。

僕はやっぱりわかりたいのか。不理解をおそれているのか。疑いの無い世界に生きたいのか。わからない。実を言うと、うたがうことは、そこまで嫌いではない。うたがうのは簡単で、誰にもできて、やさしい。うたがうだけなら誰かを傷付けない。うたがうと、新しい側面が見えるから。メロンがメロンで無いかもしれない、と考えると楽しくなる。メロンソーダはメロンサイダーかもしれない。少しだけ違う。少しだけ違うことがわかると僕は安心する。それならいいかも。そういう小説を書きたいかも。

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