生き物の補食シーンが好き



#別に病んでない

明言しておこう。
僕はグロ画像だったり三度の飯より血を見るのが好きだったり、そんなバーバリアンなわけじゃない。精神を病んだりしてない。

なんか、好きなんだ。

いつの間にかYouTubeで見ていて、いつの間にか落ち着く。補食シーンを見ていると、こたつに入っているような気分になる。

鰐が沼を決死の覚悟で渡るトムソンガゼルを容赦なく補食したり、キツツキがカッコウの雛の頭をかち割って脳髄をすすったり(キツツキはほんとにこういうことをする)、シャチが悪辣な知恵で以てアザラシを食い散らかしたり。僕はそういうのを見るのが好きだ。心が落ち着いて、静かな気持ちになる。僅な高揚と、穏やかな揺れ。感情は凪いで脈打ちながら静止する。居心地がいいんだ。
もう中高生じゃなくて、もうアラサー(この表現は辛いが)だから。やっぱり好きなんだと思う。ファッションじゃないな、と感じている。

#補食は自然なことだから

何で好きなんだろうなぁ、とよく不思議に思った。なんでだろうなぁ。なんで落ち着くんだろう。画面越しには、僕の知っている現実には無い光景が広がっているのに。

さいきんやっと答えらしきものが出てきた。
たぶんね、それは自然なことだからだ。
僕は自然で当たり前なことを求めているんだ。
自然で当たり前なことは誰にも邪魔されず、自由で豊かだ。

生きるために喰らう。
補食は生きることに洗練された機能を、100%発揮する瞬間だ。その存在が最もそれ自身でいられる瞬間だ。その閃きを得るために、何万年も種が遺伝子レベルで培った性質を披露するんだ。そして、それは自然であり当たり前でありあるべき姿なんだ…。

#自然でありたい

僕は自然か?
君には何か言いたいことがあるか?
何故、僕は自然ではないのだろう。
何故、君は言いたいことを言えないのだろう。

僕たちは自然じゃない。普通という言葉を生み出して多用しておきながら、普通じゃない。みんな自然から離れてイカれたパーティをしている。

僕は自然なことが好きだ。
自然な文章が好きだ。
当たり前なんだけど、傲っていなくて、機能美があるのにそれを気付かせない。でも分かる。分かってしまう。普通じゃないし、自然じゃないから。

白熊がアザラシの頭を叩き割って、反り血で朱熊になる。
鷲が山羊を崖から突き落とし、内蔵を啄む。
狼が必死の抵抗をする猪をじわじわ追い込んでいく。

どれも自分の特性で生き残ろうとしている。

自然に生きるということは、全力を出して生きるということだ。
持ち味を活かして、限りある生を補食することだ。

僕はそれが羨ましい。自分らしく生きている人は自然だ。例え、他者を補食していたとしても。

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