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人生は大学受験か。

1月になると大学受験のことを思い出す。今年で現行のセンター試験は最後になるという。

大学受験について考えを巡らせるにあたって、私が好きな楠木建さんがよく語っている「良し悪し」と「好き嫌い」の2つのモノサシを紹介したい。

楠木さん曰く、個人の好き嫌いを超えて万人が共通して持つ価値観が「良し悪し」だ。「人を殺したり、モノを盗んだりするのは良くない」の「良くない」が「良し悪し」の例だ。

それに対してどちらを選んでもさして誰も困らないのものが「好き嫌い」だ。食べ物や服の趣味から野球に政治に宗教まで「好き嫌い」の世界に属するだろう。

最近は本来は個人の「好き嫌い」で済む話までなんでもかんでも「良し悪し」で語ろうする人が多すぎると、楠木さんは著書の中で繰り返し指摘している。

それでいうと大学受験は間違いなく「良し悪し」という価値観がはびこる最たるものだろう。偏差値というモノサシで東大・強大を頂点としたヒエラルキーが上から下まできれいに広がっている。

進路選択の時には「好きなことを学びなさい」と言われるが、「好きなこと」を知るにはまず自分で学んでみないといけない。

自分にとっての「好き嫌い」を知ることためにはいろいろな体験が必要で時間もかかるし難しいものだ。

ビールのウマさが分かるには最初の苦みを我慢しなければいけないし、銘柄ごとの好き嫌いを知るにはもっとたくさんの種類のビールを飲み比べないといけない。

自分が何を好きかを判断するには一定の時間(苦さになれて旨いと感じる)と試行錯誤(銘柄ごとの違いを知る)を自らのコストをかけて体験しなければならないのだ。

この当たり前の事実を忘れさせてしまうのが、大学受験が恐ろしいところだ。「自分は何が好きなのだろうか、何が向いているだろうか」というまっとうな悩みをよそ眼にして、大学受験では偏差値というモノサシを用意してくれている。この基準に従えば「自分にとっての良いもの(=好き)の基準」を自らの手で探索・学習することに頭を使わずに進学すべき大学選びが済んでしまう。

さらに厄介なのが「良い大学」に入ると、たしかにそれなりに良いものが得られることだ。世間で良いとされる大学に入学すれば、親や親戚、学校の先生や友人からのリスペクトや、大学入学後に良質お経験や交友関係、さらには(これまた世間で良いとされる)大企業へのアクセス(新卒採用)が得られる可能性が高い。

その結果、他人が用意してくれたモノサシ(偏差値)と手続き(大学受験)に従い一定量の努力を投入すれば、良いものや良い体験が手に入るということに味をしめてしまう。

こうして「勉強を頑張る」⇒「偏差値が高い」⇒「良いことづくし」という経験を学習してしまうと、その後の人生でも同じように「良いこと」を得るためにまずは「○○値」を探してしまう。

だから、新卒で職業を選ぶときにも新聞社やリクルートが出す新卒人気企業ランキングやSNS上でのブランド(最近でいえばGAFA)、社会的な評価(医師、弁護士、会計士等)を追い求めてしまうのではないだろうか。

しかし、大学受験後のキャリアや生活というのは大学受験とは同じではない。大学受験の時のように「勉強を頑張る」⇒「偏差値が高い」⇒「良いことづくし」というストレートな因果関係はなんてない。

いくら頑張っても、自分が望んだ結果を得らないことも多い。そうなると「○○を頑張る」に入る○○には、出来る限り自分が好きなことを入れた方が得策ということになる。

「○○を頑張る」⇒「良いことづくし」の「良いこと」の内容もさまざまだ。自分にとってどんなもの(状態)であればハッピーなのかも人それぞれだし、その状態に至る為に頑張ることも人それぞれなのだ。

「○○を頑張る」⇒「○○づくし」

ビールの好みを知るまでの道は決して楽ではない。ビールのおいしさランキング(私版)を作る為には、自分で身銭を切って体験し自分の頭で考えて作るしかない。

同じように、この中に何が入るかを見つけられるのは自分しかいない。

その代わりに期日も無ければ偏差値もない。自分のペースで掘り下げていけばよいのだ。

人生は大学受験ではないのだから。

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