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フローラル


懐かしい匂いがした。

ふんわりと優しく香るフローラルの匂い。

僕はスクランブル交差点の途中で、思わず立ち止まり振り返る。

横にいた那奈は「それでね、昨日推しがさ……」と話に夢中でそのまま歩いていった。

何年か前のクリスマスの話。

香水が好きだった元恋人に、彼女が気になっていると言っていたAUX PARADISの香水をプレゼントした。

香水なんてどれがいいか全く分からなかったから、男一人で恥ずかしさに耐えながら何度も試供品を比べた。

その中から、店員さんと相談しながら彼女が好きそうな物を僕なりに選んだんだっけ。

はっきり覚えていないけれど、確かそんな感じ。

それが本当に偶然、彼女からのプレゼントと一緒だった。

「こんなことあるんだね」と彼女はゲラゲラと笑っていた。

「君が好きそうなものを選んでみたんだけど……」と僕は言った。

そしたら彼女は「ふーん」とそっけなく言ってから、茶色い小さな瓶を持ち上げて見つめた。

「じゃあ、同じこと考えてたんだね」と、いつになく優しく笑っていた。

この時の彼女の笑顔だけは、なぜか今も鮮明に思い出せる。

僕からの一方的な感情をぶつけてしまい、喧嘩別れみたいになってしまった彼女は元気にしているのだろうか。

今でもどこかでフローラルの匂いがすると、彼女の事が頭に浮かぶ。

まるでふんわりと優しい笑顔を浮かべた、あの時の彼女が今も横にいるみたいに感じる。

「拓人なにしてんの?」

少し離れたところから那奈の呼ぶ声がした。

振り向くと、那奈はいつの間にか交差点を渡り切っていた。

信号が点滅し始めている。

小走りになる周囲の人波に飲まれながら、僕も前に進む。

渡りきると同時に信号は赤になり、向こうに行く事は出来なくなった。

「知り合いでもいたの?」那奈はそう聞いてくる。

「んー、まぁそんなとこ」と薄らと誤魔化したけど、その事に罪悪感を覚えた。

あまり深く物事を気にしない性格の那奈は「なにそれー」と適当に流してまた話し始めた。

今は那奈といるというのに、昔の彼女の事を思い出すなんて最低だと思う。

けれど、それもこれも全部あの香水が悪い。

彼女を思い出させてしまう、あの優しいフローラルが悪い。

僕はそう思うことにした。

香水なんて、あげなきゃ良かったな。



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