「不安は人生の隠し味」

学生時代、私は毎日不安だった。

中学生、部活に進路に友達。
学力を数値化され相応の目的地へ私たちを流していく川を泳ぎ続けなければいけない。
岸に上がることは許されない。
かといって立ち止まる勇気もない。(これはまた別の機会に話したい)

高校生、人がひしめき合う濁流を経て少し広い川にでる。
そこは多少の自己意識が必要になる。

学校なんて嫌だ!辞めたい!
学校は自分次第で辞められますよ。
お酒を飲みたい!煙草も吸いたい!
お酒やたばこは法律で禁止ですよ。
何が良くて、ないが駄目なのか。
早く大人になりたい、自由になりそうでなれない。
そんな狭間にいながら大人になるとは何なのかを考えながら、もちろんそんなレールを外れる勇気もないし外れる気もないまま次なる未来への不安を抱く。
「そうか、これからは自分で決めて進んでいかなくてはいけないのか」
という当たり前の事実を受け入れて。

大学生、立派な社会人になるべく自己分析を始める。
何になりたいのか、そのためには何をしたらいいか。
私は、どんな人間なのか。

そして社会人。
私はゴールした気分になった。
そう、他意はない単純に「ゴールしたー」
という少しアホな気持ち。

それなりにまじめに生きて、それなりに遊んで、割と納得のいく職に就きやりたいことをしている。
その都度ごとにきちんと考え、ふと周りを見たら私は私だけの川を泳いでいた。

泳ぎながら楽しいと感じた。
進学、進学、就職。
ずっと行先のわかる川を泳ぎながらこれでいいのか、こっちかな?
それがずっと不安だった。
だけど今は、もう行先はない。
行きたいと思った先が行先なのだ。

流れ着く先がどこなのかわからない。
その「不安定さ」がどうしようもなく楽しい。
時には浮き輪に乗り泳ぐことを放置する。
飽きたらまたどこへ行こうかゆらゆら考える。
「不安」がいざなうまだ見ぬ世界へ。

そうして私の人生はスパイスの効いたものになる。
すこし不安なくらいが、ちょうどいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?