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うばすてやま

姥捨て山とは「年寄りは智恵がある」という民話である。

智恵を授けてくれたおばあちゃん達の事が、私はいつも忘れられないので、ここいらで記録して、もう脳内の奥深くに眠っていただこうと思う。

認知症のじゅんこさんは博識で温和な大正8年生まれのクリスチャン。「上靴はかんと裸足で来た」と言うと「裸足じゃなくて、素足」と靴下を履いている私の足を見ていう。
また、雑巾絞りの手元をいつも逆手と順手で内側に絞るよう注意してくれる。
私は今でも身につけられていないので、雑巾を絞るたびに優しくて厳しいじゅんこさんの声が聞こえて肩をすくめる。
じゅんこさんが東京オリンピックタグがついた毛布を綺麗に使っていて、ウール毛布って丈夫なんだなーと感心したため、私も一生使えるようウールの毛布を愛用している。

大正9年生まれのみつこさんは、村長さんの娘さんだった。昔の町の名士というのは、沢山の人を手助けする役割があったことをきいた。
もちろん認知症であったが、みつこさんと食器を洗うと、丁寧にお皿を手のひらで撫でてすすぐので、私もお皿を丁寧に撫でて洗い流すようになった。
家族さんは介護施設に面会のたびにみつこさんの好きな花束を持ってこられ、みつこさんは毎朝、洗面所に花を広げて茎を少し切って、また花瓶に生ける。
毎日そうするの?と聴くと毎日茎を切って水を入れ替えると長持ちするのよ、と教えてくれた。
いま、私も花を飾るようになり毎日そうしている。

大正3年生まれのじょうさんは、漁師町で90年生きた人で、笑顔を向けただけで「おかだのおなごなめとったら横っ面ひっぱたかすぞ!」と右手を振りかざす、めっちゃ威勢の良い認知症のおばあちゃんだ。小さくて腰が曲がっていたけれど「わしゃ曲がったことは大嫌いやし!」と言い「わしゃあ子供のころから朝にぬくめし炊いて食べてたんじゃ!温めしなんか、ええしの子でも食べられへんのじょ!」とよく教えてくれた。漁師のお父さん達が港で売れない魚を焼き、米を炊いて食べていたのに子供も混じっていたことが、「エエとこの子」よりも幸せだったご馳走の思い出らしい。
じょうさんは、寝ているだけで足の付け根を骨折した。自分の体重か寝返りで折れてしまって、もう立てないはずなのに、ひょっこり廊下に出て来たことがあり、人体の不思議をみた。

はなさんは、大正4年生まれの貿易商の娘さんで、杉の生け垣の豪邸に住み、はなさん専属の女中さんに世話されて、その時代に家族でスキーを楽しんでいたお嬢様だったが、苦労人で気さくな事この上なかった。認知症もバリバリで、商人のように愛想を言うけれど、頭のなかの本音の文句が口からだだ漏れで、本当に面白い人だった。
私と二人のときに、愛について真剣に教えてくれた。
男性のことを信じられないような時でも、絶対に愛を信じること。男性の愛を疑ってはダメだとこんこんと言い聞かせてくれた。愛に生きた人だと感じた。

書き出すと、全員に思い出がある。会話や仕草が忘れられない。

認知症になる前はムッツリして厳格なおばあちゃんだったのに、晩年は男性に会うとキャーキャー喜び、引っ付いて離れず、手を叩いて爆笑しながらテレビを楽しむなど「性格が変わる」こともあり、認知症って怖いな、と感じたこともある。

夜寝てくれなくて、どうしても手におえずに介護ベッドで添い寝をしたり、一緒にスーパーへ買い物にいくと行方不明になり真っ青で探し回ったり、居室中の床や壁が擦り付けられたウンコまみれだったこともしょっちゅうあった。

どれもこれもいい思い出でしかない。
テーブルに全員を集めて、お年寄りと即興でゲームをする。私の盛り上げにいとも簡単に乗ってくれて、みんなが楽しそうに笑ってくれるのが本当に嬉しかった。他の職員に気が引けるくらいに、本気で遊んでいた。


大正2年生まれのゆきさんは、笑って食べる以外は寝ていたし、殆ど喋らなかったけれど、何人ものスタッフがゆきさんに悩みを聞いてもらっていた。寝ているのか起きているのか聞いているような反応もないけれど、抜群の包容力があった。ゆきさんを抱き締めるとホッとした。


ほとんどの人は認知症で、施設で老いを見つめるのはやはり辛かったけれど、今、振りかえると「施設での生活も、皆よかったんだ」と思える。

自宅での生活を支えるケアマネージャーを10年してみてやっと、施設の良さを振り返ることができ、みんな、安心して暮らしていたんだ、とわかる。

施設は一見うばすてやまみたいだけど、そこで生きている人にはそうじゃなかった。安心して過ごせる場所だったんだ。

みんなみんな、色々教えてくれて本当にありがとう。
施設で暮らしても幸せだったよって、もうあんまり私の脳内で生き生きと姿を見せてまた笑わせないで。
もう大人しく、こころの奥にしまわせて。


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