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下手人小話――犯罪者を意味する言葉


1.必ず下手人を見つけてやる!


 江戸の夜に蝋燭が揺らめき、切れ者の十手持ちが呟きます。
「くそっ、必ず下手人を見つけてやる」
 捕物帳でありそうな場面です。
 ここで疑問が出ます。彼が口にする言葉は、「下手人」でいいのでしょうか

 いま辞書を引けば、下手人はこう書かれています。

げしゅにん【下手人】(ゲシニンとも)
1)自ら手を下して人を殺した者。「――を挙げる」
2)事件の張本人
3)江戸時代、人を殺し、また、殺人の指揮などをしたものに適用する斬首刑。
→げしにん

『広辞苑』第五版

 切れ者の十手持ちが言っているのは、(1)、「殺人者」の意味でしょう。
 そして上記の(3)にあるように江戸時代、下手人は刑罰の名前でした。

2.必ず懲役を見つけてやる!


 現代で言うなら罰金とか懲役とか禁錮とか、そういう刑罰の一つに「下手人」という罰があった。
 条文はこんな感じです。

人を殺し候もの 下手人

「公事方御定書」下巻

不儀之男女致相対死候は死骸取捨
但男致命候はゞ下手人
(私訳:不義の男女が心中した場合、死体は放置。ただし男が死亡しなかった場合は下手人)

「松代藩御仕置御規定」


 どういう刑かと言いますと、辞書にもあったとおり死刑です。ただ死刑の中でも、もっとも軽い死刑でした。
 重い死刑になると、苦痛を味わわせたうえで処刑したり、死後に財産を没収したり、死体を晒し物にしたりしますが、下手人は人目につかないところでバッサリやるだけです。

 問題なのは、辞書の(1)「殺人者」の意味と、(3)「罪名」の意味が、共存していたのかどうかです。

「殺人者」と「罪名」を指す言葉が同じというのは、感覚的にもヘンです。
 現代の警察は、「くそっ、必ず懲役を見つけてやる」とは言いません。
 江戸時代でも、「くそっ、必ず火罪を見つけてやる」とか「くそっ、必ず所払いを見つけてやる」とは言わなかったはずです。
 下手人だけは特別だったのでしょうか?

 この謎を解くには、「下手人」という言葉の意味を探り、なぜそれが死刑の罪名なのかを知らなくてはなりません。少し時を遡ります。

3.げしにん or ヤッチマイナー


 下手人は「げしにん」とも読みます(どうも「げしにん」の方が古い言い方のようです)。
 そして「げしにん」とは平安後期以降、ある特別な制度のために用いられる人間を意味していました。

 表記は様々です。下手人、解死人、下使人……まあ、江戸時代ぐらいまでは万事、音があっていれば漢字の表記にはこだわりがなかったようですので、ただしい表記にこだわるのは無益でしょう。
 その「げしにん」とは、二勢力間の争いで死者が出た場合、加害者側から被害者側に差し出される人間のことを言いました。

 A村とB村で争いになる。その中で、A村の若者がB村の若者を殺してしまったとしましょう。
 A村に謝る気がなければ、話は早い。開戦です。ヤッチマイナー

 しかし、A村に開戦の意図がなく、さすがにコロシはマズイよ……という話になると、A村から「げしにん」が出されます。
 B村はこの「げしにん」を受け取り、「A村の誠意はわかった。ここは穏便に行こう」と怒りを鎮めるわけです。
(たまに、「げしにん」を殺してしまう例もあることはあったようです。また、示談の方法が「げしにん」しかなかったわけでもありません)

 面白いのは、この「げしにん」は殺人の実行者である必要がないという点です。A村に属していれば、誰でもいい。
 いわば人間の形をした賠償品、お詫びの菓子折りのようなものです。

 なぜ人間が殺人の詫びの品になるのかというと、もちろん、人の命は人の命でつぐなうという発想が根底にあるからです。
 こないだはそっちの人間殺しちゃってごめんね! おわびにうちの人間あげるから、よかったら殺してね! これでおあいこね! というわけです。

3.示談の「げしにん」から刑罰の「下手人」へ


 戦国時代にカトリック宣教師が作った『日葡辞書』には、「げしにん」の解説として、この賠償人の、身代わりの意味しか載っていません。

Guexinin
本当の犯人のかわりに逮捕されたり、罪を言い渡されたりしている人。ただし通常は、無罪放免となる。

Guexinino ダス、または、ヒク
犯人が自分の代わりに誰かを出す。

『日葡辞書』

 この「げしにん」が、江戸時代に入ると「下手人」、死刑の罪名になる。
 なぜか?

「げしにん」制というのは、当事者間で争いを収める方法、自力救済の一つです。実際には、土地の有力者が仲介することになるでしょう。
 しかし江戸時代は、基本的に自力救済が否定されます。犯罪被害を受けた場合、それを自分の実力で回復することは奨励されません。

 親を殺した仇を討つことさえ、届出、報告が必要になります。江戸時代以前なら、誰も敵討ちに届出など求めなかったでしょう。
 ゆえに「げしにん」制も、時代に応じて変化しなければならなかった。

 こんな文章があります。

人を殺せばその相手を官より召て死を給ふ是を下手人といふ

『松屋外集』

 殺人が行われれば、むかしは当事者間で「げしにん」のやり取りが行われた。
 しかし江戸時代にあっては、犯罪は当事者間で示談すべきものではなく、法に基づいて公権力が加害者に処分を下すものであるわけです。
 これが、「下手人」が死刑の名前である理由です。
「げしにん」は、遺族の無念を晴らして秩序を回復する――別の言い方をするなら、おあいこにすることが目的でした。その発展形たる「下手人」も目的は同様であり、風紀紊乱や公権力への挑戦への見せしめとしての刑ではないから、財産没収や晒し者などの付加罰がないのです。

(中世の「げしにん」は、それで被害者側の気が済むのであれば、殺さなくてもいいものでした。江戸時代の「下手人」も、被害者側の申出があれば罪一等を減じるケースもあったようです。しかし、裁判権を持っているのは公権力であるという建前がある以上、被害者側の意見はそれほど重視されなかったようです)

4.「殺人者」と「下手人」


 さて、江戸時代「下手人」が中世「げしにん」を発展解消させた刑罰であることがわかったわけですが、こうなるとますます奇妙です。
 切れ者の十手持ちは「くそっ、必ず下手人を見つけてやる」と言ったでしょうか。それは刑罰の名前であり、賠償人を意味する言葉だったはずです。
 別の言い方をしましょう。

げしゅにん【下手人】(ゲシニンとも)
1)自ら手を下して人を殺した者。「――を挙げる」

『広辞苑』第五版

 この、「殺人者」の意味は、本当にあったのでしょうか

 現在において「下手人」が殺人者(あるいはもっと広く、犯罪者)の意味で用いられていることに、疑いはありません。書店に行って時代小説、歴史小説を開けば、犯人を「下手人」と呼んでいる例はすぐに見つかるでしょう。

 問題なのは江戸時代、あるいはもっと以前に、そういう用法があったかどうかです。
 下手をすると「下手人=犯罪者」の用法は現代に発明されたものかもしれない……。
 用例を見てみましょう。

5.こなさんは解死人じゃ


 まずは江戸時代から。
 改行や句読点挿入、現代仮名遣い化、太字強調など、少し読みやすくしてあります。

「コレ見やんせ。もしも、いとめが死におると、こなさんは解死人じゃ。そう思うていやんせ」(略)
弥次郎にわかにうろたえ出し「ええコリャ、北八どうしたものだろう。おらァもうここにはいられねえ(略)コリャコリャ北八、ぜんたい、てめえが悪い(略)もとはてめえが発頭人だから、解死人はそっちへゆずるぞ」
北八「ヲヤとんだことを言う。当人はおめえだわな」
弥次「そんなら拳をして負けた方がげしにんだ」

『東海道中膝栗毛』七編下

 弥次喜多が宿で馬鹿騒ぎをした果てに、宿屋の娘が怪我をして昏倒してしまった場面です。「いとめ」は「いとさん」「おいとはん」などの「いと」。愛娘が死んだらこなさん(あなた)は解死人だ、という意味です。
 弥次喜多は「解死人」「げしにん」を押し付けあって、拳(じゃんけん)をしようとしています。

 ここは「殺人犯」の意味でも取れなくはないですが、「死刑」の方が素直でしょう。
「娘が死んだらお前は殺人犯だ!」と凄んでも、何というか、当たり前の話です。子を車に轢かれた親が相手のドライバーに向かって、「この子が死んだらあんたは犯人だ!」とは言いません。それはただの事実で、非難や罵りの言葉にならない。
 そうではなく「娘が死んだらお前は死刑だ!」と言うから、弥次喜多が慌てて、「げしにん」の押し付け合いを始めるのです。

6.下手人乞われ出す例やある


 もう少し遡ります。室町時代。
 これも、読みやすく調整しておきます。

師直、「いやいやこれまでの仰せを承るべしとは存ぜず。(略)讒者の張本を賜って後人の悪習を懲らさんために候う」
(略)
将軍いよいよ腹を据えかねて、「累代の家人に囲まれて、下手人乞われ出す例やある。よしよし天下の嘲りに身を替えて打ち死にせん」

『土井本 太平記』巻二十七

 観応の擾乱の一幕です。
 讒言(あいつダメですぜ、と上役に悪い噂を吹き込むことですが、現代語に適切な言葉がありません。なぜだ……この世から讒言がなくなったわけでもあるまいに……)された高師直が、あいつを引き渡して下さいと足利尊氏に詰め寄る場面です。
 詰め寄るといっても、軍勢を引き連れての話ですが。

「将軍様、嘘つき野郎を引き渡して下さい」
「てめえ馬鹿野郎、武装した部下に囲まれて『はい出します』なんて話はありえねーんだよ!」
 というぐらいの場面でしょうか。

 ここで将軍(足利尊氏)が使っている言葉が、「下手人」です。
 うーん……。
「殺人者」ではありませんね。「下手人」とされる人物が行ったのは讒言です。
 さらには、殺人の賠償のために「げしにん」を出すという話でもない。

 尊氏は、部下から脅されて下手人を出せば天下の笑い者になるといって怒っています。
 ここは難しいのですが、たとえ極悪非道の犯罪者でも、武士は庇護下に入った者を容易には見捨てません。部下に迫られて庇護下の人間を出しては笑い者だ、という尊氏の考えは、武士らしいといえる。
 しかしそれ以上に、私には、「げしにん」はお詫びの品であるという点が尊氏の怒りにかかわっているように思われてなりません。

 さきほどのA村とB村の話を思い出して下さい。
 A村が「げしにん」を出すのは、コロシはヤバいと思い、詫びを入れて全面衝突を回避したい場合でした。

 つまり、「げしにん(下手人・解死人・下使人etc)」の本質は身代わりにではなく、詫び、誠意にあると言えるのではないか。少なくとも、後の時代のように、讒者ではない別人を身代わりに出して話が済むとは思えません。
 そして尊氏は、将軍ともあろう者がこちらから部下に詫びを入れる、詫びの品を出すなんて出来るはずがないと怒っている。そう考えられます。

 いずれにせよこの場面において「下手人」という言葉に、殺人者・犯罪者の意味は皆無です。
 出せ、出さないの争いの焦点になっている人物(妙吉侍者といいます)は、高師直から見れば讒者でも、尊氏から見れば、ただの僧侶なのですから。

7.下手人と称し交名を注進す


 さらに遡ります。鎌倉時代。
 旧字は新字にしてあります。

延暦寺の所司弁勝、義範等参著す。(略)
またかの父子のほか、下手人と称し交名を注進す。これ去ぬる三月、佐々木庄において、山門の使を凌轢す。その張本のいはゆる堀池八郎宝員法師、(略)等なり。

『吾妻鏡』第十一 建久二年四月

 これは……微妙ですね。
 延暦寺の僧は、「下手人リスト(交名=リスト)」を提出しています。提出先は鎌倉幕府です。
 そこにある名前は、山門の使を凌轢、つまり延暦寺の使者を侮り踏みにじった者たちだといいます。

 この事件は、その年の佐々木庄の収穫がはかばかしくなく、延暦寺に収めるはずの年貢を収められなかったことが原因です。
 延暦寺側は、出すもん出せや! といって、神鏡を捧げ持って領主の館に乱入し、狼藉を働いた。それに対して領主が耐え兼ね、部下に命じて延暦寺側の僧を一人二人傷つけた。その時、神鏡が破損した……と、吾妻鏡にはあります。
 壊れて困るものなら鉄火場に持ってくるなよ……と言いたいところですが、これは、破損したと言って相手をゆするのが目的ですね。

 この時の、延暦寺の僧を傷つけ神鏡破損の原因を作った者たちを、「下手人と称し交名を注進」つまり「下手人だといってリストを提出」したわけです。
 微妙なのは、この「下手人」をどう見るか。延暦寺が出したのは「犯罪者リスト」「実行犯リスト」なのか、それとも「詫び人として出してほしい人リスト」なのか?
 少なくとも「殺人犯リスト」ではなさそうですが……。

8.あったよ! 「犯罪者」の意味は本当にあったんだ!


 ヒントになる記述が、『吾妻鏡』の、この先にありました。
 事件を受けて頼朝が書状を書いています。そこに、こんな一文がありました。

交名の輩、その身を召し、院の庁に進ずべきなり。(略)
定綱を配流し、下手を禁獄するの由、宣下すでに畢んぬ。

『吾妻鏡』第十一 建久二年五月

 交名の輩とは、「下手人と称」された者でしょう。彼らは院(後白河上皇)の庁舎に送るべきだという。
 定綱というのが、押し入られた領主です。彼は流罪である。
 そして「下手」は禁獄であるという宣下がすでにあったのだと言います。ここでは「下手=下手人」です。

 もし「下手人」が、佐々木庄から延暦寺に出すべき詫び人を意味しているとすれば、彼らは延暦寺に送られたはず。
 ところが彼らは後白河上皇の庁舎に送られている。

 つまり彼らは中世的な、紛争相手に渡された詫び人ではなく、禁獄するため、さしあたり中立の庁舎に送られた犯罪者だったのです。
 ついに行き当たりました。「下手人」を「犯罪者」あるいは「実行犯」の意味で使っている事例に!

 しかし、江戸時代とはあまりに開きがあります。
 建久2年と言えば1191年。江戸時代まで400年以上ある。

 ちょっと離れすぎです。
 言葉の意味が変わるには、充分すぎる時間でしょう。

9.まとめ、あるいは下手人を見つけない十手持ち


 まとめましょう。
 12世紀末には、たしかに「下手人」には「犯罪者」「実行犯」の意味がありました。

 しかしその後、中世を通じて「げしにん(下手人・解死人など)」は、賠償として相手に引き渡される人間へと意味を変じていきます。

 江戸時代、その詫び人の収容・処分までを公権力が担うことになり、「下手人」は死刑の罪名になりました。

 そしてその間、「死刑(の一種)」という意味と、「犯罪者」「実行犯」という意味が「下手人」の語の中で両立する、同字異義語だったという証拠は、いまのところ見つけられていません。

 単に「犯罪者」「実行犯」の意味でなく、「殺人者」の意味に限って「下手人」を使っている例もまた、未発見です。

 以上の経緯から、どうやら実際の十手持ちは、「くそっ、必ず下手人を見つけてやる」とは言っていなかった……と思われます。


 ここからはただの推測。
「下手人」が「殺人者」の意味だと思われているのは、「手を下した人」と読んだためでしょう。呑み込みやすい理屈だというのは確かです。
 あるいは、

人を殺し候もの 下手人

「公事方御定書」下巻

 という有名な条文を、「『下手人』とは『人を殺し候もの』のことなのだ」と誤読したためでもあるかもしれません。

10.おまけ

 以下、おまけです。
 では、実際には犯罪者のことを何と言っていたのでしょうか。
『群書類従』に当たってみました。

・下手人 29例
ただし、「犯罪者」「実行犯」の意味で用いているものはその一部です。

・咎人 3例
思ったより少ないですね。

・科人 45例
「犯科人」「罪科人」を含みます。

 そして、信じがたい結果が出てしまいました……。

・犯人 88例

 それも、

頓て彼下人を誅せんとするところに。忽ち眼暗なりて。犯人の首を打はづす事両度なり。

『諏訪大明神絵詞』下

口論一人被突殺了。死人大光明寺下部。(略)犯人者逐電之間家を検(ただし手偏)封了。

『看聞御記』応永二十八年六月

 など、ふつうに現代語の「犯人」と同じように使っている例が多く見られたのです。
 つまり江戸の夜に蝋燭が揺らめく時、切れ者の十手持ちが呟くのは、
「くそっ、必ず犯人を見つけてやる」
 で、何の問題もないということになりそうです。

 それはそれで、ちょっとさみしいですね……。
 江戸時代に使われていた言葉だからと、芝居の中で旗本に「ぼく」と言わせて、失笑を買ったという話を思い出します。
 いずれにしても、本当に江戸時代や鎌倉時代の言葉が使われているおはなしなんてありません。あったとしても、読者観客がわからない。

 これは当時の言葉ではないらしいとわかった上で「下手人」を使うなら、それも一つの時代劇言葉、時代小説言葉。
 考証はおはなしを生かすためにあるのであって、その逆ではないのです。