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2020年2月からの私たちは、

ここ数年の記憶が全然ないという話は前回のnoteでもしたのだが、前回のnoteで書いた感染予防のために外出も控えて、マスクもする生活様式になってからいろんなものの匂いを感じなくなって、それによって記憶もあまりなくなってしまった、という話を友達とも話していた。

日本で初の感染者は2020年の2月ダイヤモンド・プリンセス号の乗客だった。その時私はまだオーストラリアに留学していて、中国武漢で感染が出たことを遠い国のことのように思っていた。

2020年3月。私の大学の同級生は卒業式を迎えたが、卒業式・学位授与式は中止になった。
袴の予約をキャンセルした子もいたし、せっかく予約してしまったから、と袴を着て大学の写真だけ取りに来た子もいた。

大学の授与式中止の発表

当時、よくわからないウィルスだったコロナは自分だけではなく、家族にもかかるかもしれない、自分の軽率な行動が逼迫している医療従事者にさらに迷惑をかけてしまうかもしれないというあらゆる不安を煽って、あらゆるものを自粛させてしまった。

同級生の卒業を見送った私は、1つ下の学年の子たちと3年から続けていたゼミにはいって、卒業制作をはじめることになる。

授業もゼミもオンラインが主流になった。いま思うと、生徒の中には自分のパソコンを持っていない人もいただろうし、学校も講師もいままでとは違う授業形態を準備するのに1ヶ月そこらの短い春休みの期間でよく体制を整えたものだ。

就活はオンラインになって、その分出歩くことも減って楽にはなったが、念の為に、と買ったリクルートスーツと靴とバックは結局1回しか着なくて、就活のお作法に完全に迎合することも、歯向かうこともできなかった象徴として自分の嫌な思い出になってしまった。

就職して1年。今年で2年目になる。仕事はまだまだ上手く行かないこともたくさんあるけど、IT業界なだけにパソコン一つで仕事ができるので週2日出社で社内の人ともコミュニケーションがとれるよい職場だ。

この2年半はかなりドタバタしたけど、人も学校も会社もこのドタバタな状況に頑張って合わせようとしている。
そして2年半もすればコロナ後の世界を夢見て辛抱しよう、ではなくて、コロナとともに生活様式をあわせていこうと変わってきている。


そしていま、ワクチンが開発され、私もすでに3回目を受けた。いままでは、祖母に会うのも控えようと思っていたけど、いまは前ほどは抵抗がない。むしろ、日常の尊さがわかってなるべく会いたいと思うようになってしまったかもしれない。


だからコロナがあるという状況に慣れてしまっている自分がいる。自分だけじゃなく、自分の周りの人も、会社の人もテレビのアナウンサーもそれが当たり前であるかのようになってきている。


でも私はこの2年半を全然消化できていない。
コロナという突然よくわからないものでふだんの日常が日常でなくなってしまって、コロナがなければあり得た日常なんてものはもうないんだけど、この2年半の中で奪われてしまった(という表現が適切かは分からないけど)ものがたしかにある。

それを視点の変化でポジティブにとらえることもできるし、マイナスにとらえることもできる。でももっと大事なのは、なにがなくなったか、またはなにが得られたかを立ち止まって考えることだと思う。


最近、息苦しさを感じることが多くなってしまった。無性に不安を感じることとか、言いようのない救われなさとかで呼吸がしづらい。なにがあったとかではないんだけど、とにかく深く息が吸えない。

長野旅行に行った時に、村上春樹の「職業としての小説家」という本に出会ってちょっと読んでいた。
やっぱり本というのはその時に必要な言葉に出会わせてくれる。私がその時に見つけた言葉はこれだった。

小説をひとつ書くのはそれほどむずかしくない。(省略)しかし小説をずっと書き続けるというのはずいぶんむずかしい。誰にもできることではない。そうするには、さっきも申し上げましたように、特別な資格のようなものが必要になってくるからです。それはおそらく「才能」とはちょっと別のところにあるものでしょう。
じゃあその資格があるかどうか、それを見分けるにはどうすればいいか?答えはただひとつ、実際に水に放り込んでみて、浮かぶか沈むかで見定めるしかありません。(省略)それにだたいたい小説なんか書かなくても、人生は聡明に有効に行きられます。それでも書きたい、書かずにはいられない、という人が小説を書きます。そしてまた、小説を書き続けます。

村上春樹「職業としての小説家」

書きたい、書かずにはいられないという人が書き続ける。
私は小説ではないけど、やっぱりなにか困ったことがあると、それを取り込むために書かずにはいられなくなってしまうのだ。

だから、この2年半のコロナのことをしょうがなかったね、でも乗り越えてきたね、だけで終わらせたくはない。その間にあったいろいろなことは、記憶がなくていまなにがあったと聞かれるとほんとに思い出せないのだけど、それを思い出してnoteに書いていきたい。

なにもしていなかった、なにもできなくなってしまったように思えるこの2年半を消化するために書きたい。

というのが今日のnoteの結論なんだけど、村上春樹の言葉を引用するために本を読み返していたらもう一つ締めくくりで言っておきたいことがあった。

やっぱり、どうしようもなく物語を書きたい。媒体はやりやすければなんでもいいんだけど、ほんとうにどうしようもなく物語をかきたいという気持ちが最近ふつふつとある。

どんな本でも小説でも映画でも音楽でもドラマでもアニメでも、物語を感じられるといつも感動してしまう。こういう物語がかけたら、と思うとぞくぞくする。
でもその気持ちは本当の気持ちだから、向き合うのには覚悟が必要。中途半端な気持ちでやるとすぐ挫折してしまう、だからなんでも好きなものは始めたらいいけど始めるならそれ相応の覚悟をもて、というのは最近読んだ久石譲の本に書いてあった気がする。

いいアウトプットには、大量のインプット。


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