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真夜中12時のブランコ

遊具を発明した人は天才だなと思う。

なにか作品を作るときは、考える余地とか余白がすごく大切になってくる。学部時代、1年に1度くらいの頻度で作品を作り、人前に出す機会に恵まれたので、私の作品を見てくれた人の感想を受け取ったときにそう感じた。

なにか言いたいことがあるなら直接いえばいい、スピーチでもなんでも、主張する方法はいくらでもある。だけど直接的な方法で人になにか影響を(影響というとちょっと仰々しいから)人間の、心の池に小石を投げ入れたときの波紋のような、そういった変化を与えるのは難しい。

変化を与えたいという希望はないのだけど、でも作品をつくるということは直接的ではなく、婉曲的な方法になる。
言いたいことが真ん中にあって、その周りをなぞっていくようなイメージだ。ある人から見たら実にもどかしいやり方だし、受け入れられない人もいるだろうなぁ。

ブランコの話に戻ると、今日私は深夜12時を過ぎた頃に家の前までついたにも関わらず、まだ帰りたくない気分になって散歩をはじめた。

目的地がある散歩ではなく、散歩自体が目的だったので、ぷらぷら歩いていると、小学生のときよく遊んだ公園にたどり着いた。

誰もいないが、電気が煌々と光る公園に目をやると、ブランコがあった。パソコンの入ったかばんをもったまま、25歳女が深夜12時に無心でブランコをこぎはじめた。

さすがに深夜なので、誰か来ないかな、後ろから刃物をもった人とかにいきなり刺されないかな、とかキョロキョロしつつ、ブランコを漕いで夏のじとっとした夜を楽しんでいた。

「夏 チルソング」で検索した適当なプレイリストをイヤホンで聞き流ししていたが、ひぐらしとセミの鳴き声が音楽ごしに聞こえるほど大きかったので、曲を止めて夏の夜と虫の声を味わうことにした。

ブランコをこぐのにも飽きて、家に帰る道、誰もいなかったし息苦しかったのでマスクを外した。マスクを外すと、急に雑草の匂いや夏のジメッとした匂いがして、小学校の頃、毎日朝早い時間に行かされたプール教室の思い出がよみがえってきた。ブランコをこいだせいか手から鉄の匂いもした。

夏を嫌でも感じていた頃と比べて、マスクとイヤホンをつけて仕事に向かい、涼しい部屋でパソコンに向かって仕事をするいまの生活は季節を感じにくくなっている。

私はここ2,3年の記憶があまりになさすぎるのだが、(23歳、24歳、25歳をもっと謳歌したかった)コロナで一年中マスクをする生活は、移動の制限、人と会うことの制限、遊ぶことの制限、事実としていろいろ制限をされる以上に、もっとみえない部分で失われているものがあるのだと思う。
それはたとえば、匂いを感じにくくなるということ、匂いを感じないことで感覚として記憶に残る部分がかなり少なくなってしまったこととかだ。
就活、新社会人という人生的にはビックイベントがあったにもかかわらず、ここ最近の記憶がないのは、マスク生活になったことと少なからず結びついているだろう。


最近、もっとちゃんと生きたいな、という気持ちを強く持ち始めている。
ちゃんと生きるということがなにかうまく説明はできない。だけど、コロナでしょうがないよね、コロナになっていい方向に動いたこともあったよね、で流したくはないものとちゃんと向き合っていきたいなと思った。

物分りの良い子、ポジティブさが求められる昨今だが、自分の大切な部分と向き合うために、コロナに対しては物分りが悪い子でありたい。そして、コロナによって自分が失ったものもちゃんと見てみぬふりはしたくない。

そういうことを作品にできたらいいんだけどね。文章だと直接的すぎるのでね。

そんな思考が深まったのは、ブランコをぼーっと漕いでいたからかもしれない。町と多くの人が寝静まった夜にそこにいてくれる公園とそこにただある遊具は余白そのものであって、遊具を作った人にリスペクトが生まれた。

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