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九龍の深淵にて

親愛なる友
ダグラス.P.ラヴクラフトへ

突然の手紙に驚かれたことと思う。早急に君に話しておかねばならないことがあるのだ。それは私が見た夢の話であり、この世界に関わることでもある。何とかして君に伝えなければという一念で、腐心しつつも事細かに纏め上げた。どうか空想だ創作だと笑わないでくれ。これはありのままの悪夢なのだ。君を信じている。最後まで読んで力を貸してくれることを信じている。

私は空を見上げていた。闇夜に輝く星々に宇宙を感じ、銀河の壮大さに畏怖すら覚えた。星の瞬きを目で追っていくと大きな渦がある。集束する力で星々が歪む。圧迫感。強烈な息苦しさを覚えた私は思わず目を閉じた。呼吸を整える。少し楽になる。再び目を開くと足元には舗装されたコンクリート。まだぼやけている目で正面に視線を移すと、ネオンや信号と思しき光が明滅していた。いつの間にか何処とも知れぬ街へと移動したらしい。しかしどこか可怪しい。あるべきものがないのだ。先ほどから人や車の往来が全くない。がらんとした道。誰も居ない。騒音もない。ただ一人。私だけが居る。周囲を見回してみる。依然として人も車も見当たらないが、少し離れたところに異様な建物がそびえ立っていた。至るところから突き出す、けばけばしい看板。狭い一角に密集する建物群。干した洗濯物が風になびいており、人が居ないにも関わらず奇妙な生活感が漂っている。不自然に上へ上へと伸びた外観。彩る原色のネオン。何処かで見た気がして記憶を辿ってみる。思い当たる場所の名が浮かんだ。

九龍城

今は取り壊され姿を消した混沌と背徳の魔窟。人の持つ欲望を凝縮した異界であり、世界から廃棄された場所。何度も写真で見たことはある。しかし実際に見ることは叶わなかった。それがいまここにある。不可解な状況ではあるが好奇心が勝り、その一角へと歩を進めた。多くの看板や雑多な造りは写真で見たまま。喧騒だけがない。何となく向けた視線の先に、内側へと続く路地があった。中を見たいという強烈な欲求に抗うことができず、私は狭く薄暗い路へと足を踏み入れた。

内部は想像以上に薄暗く、時折明滅する灯りを頼りに進んでいくしかない。排水管やケーブルが血管の如く走り、水漏れが水滴となって規則正しく脈動する。まるで胎内を進んでいるようだ。構造としては迷路。角を曲がれば何処に出るのか。階段を登れば何処に出るのか。まるでわからない。

何かの工場の前を通り過ぎると、散髪屋のサインポールが見えてきた。その向かいの部屋には、生物なのか作り物なのかも判別しない不気味な何かが無造作に転がっていた。断続的な金属音が辺りに響き不快さは増す一方だ。その音を避けるように角を曲がる。真っ直ぐ伸びる通路。手前の部屋には中国語と思しき看板が掲げられ、中には埃を被った医療器具が放置されていた。通路に目を戻すと奥の方に妙な気配を感じた。灯りが消え深い闇に覆われているため姿形は見えない。ズルズルと何かを引きずる音。ヒューヒューという呼吸音も聞こえる。べチャリべチャリと汚物を地べたに叩きつけるような音がするたび、原色の瞬きが爆ぜた。それでも姿形は判別できない。しかし確実に通路の奥からこちらへと近づいてくるものがある。恐怖というよりは嫌悪に耐えられなくなった私は、振り向きざまに走り出した。角を曲がり目に入った階段を登る。進むにつれ配水管のうねりは激しさを増し、垂れ下がるケーブルの数も増えた。水滴の音も心なしか大きくなった気がする。明滅する灯りで視覚が覚束なくなった頃。驚くほど広大な空間に出た。

見回しても光源らしいものはないが、通路から比べると格段に明るい。九龍城にこれほどの空間があったのだろうか。究極の密集とも言うべき構造を考えれば、物理的にこんな場所は存在し得ないのだが…。奥に目をやると寺院のような建物が見えた。土地に合った東洋的な造りではなく西洋的な造りであり、空間の異様さも手伝って威圧的なオーラを発している。寺院の入り口まで移動すると中央に大きな両開きの扉があり、壁面には文字なのか文様なのか分からぬものがびっしりと刻まれていた。造りとしては教会的ではあるものの、神聖さとは真逆の禍々しさが漂う。しばらく扉の前で様子を伺っていると、ギィと低い唸りをあげ少しだけ扉が開いた。驚き後ずさるも特に何かが出てくるわけでもない。隙間から中を覗いてみる。燭台に照らされた内部は外見同様、教会に似ているようだ。人の気配はない。意を決して中に入る。やはり教会と同じ構造だ。違うのは奥にあるのがキリスト像ではなく、何か別のものを祀った祭壇であるということ。しかし祭壇にある像を表現することができない。像として形は成していても、それが何を模ったものなのか。似ているものがないのだ。そもそも、人の言語で表現できる代物ではない。あまりの不快さに目を逸らすと、祭壇手前の台座が目に入った。その上には一冊の書物が置かれている。装飾の施された表紙に浮かぶ文字。英語ではない。知識にあるどの言語とも異なる気がする。故に内容の判別はつかなかった。表紙に目を奪われていると、自らの意思とは関係なく左手が動き表紙を開いた。左手が途轍もないスピードでページを送る。あるところまで進めると手が止まる。判別不明な文字の羅列は変わらない。突如。頭の中に何かの詠唱が流れてきた。

イイ…
イグナイイ…
トゥフルトゥクングア…

奇怪な発音。どんな意味かもわからないが、怖ろしいことがおきる前触れだという悪い予感はある。そして予感は的中した。揺らぐ視界。色の濁流。自らの鼓動に押し潰されそうだ。鳴り響く詠唱が極限に達した時。筆舌に尽くし難い巨大な異形が現れた。

極彩色を透けさせ形は定まらず。固体なのか液体なのか気体なのか。様々な生き物が混在し蠢く冒瀆的な姿に吐気をもよおした。名状しがたい存在。取り込まれれば邪な存在へと変貌してしまうことは容易に想像がつく。決して人が触れてはならない深淵。全身の震えは止まらず、本能がこの場所を去れと警告を発した。恐怖に慄きながらも全力で扉の方へと走った。持てる力を振り絞っているはずなのに、まるで水中に居るような緩慢さ。確実に距離を詰めてくる邪なるもの。必死で藻掻く。されど目の前には掴むべき藁すらない。それでも距離を取ろうと足を前に出す。数メートル先には開いたままの扉。あと少し。しかし無情にも空間は歪み入り口は消えた。代わりに見たこともない情景が広がる。

奇妙に捻くれた木々。茂りが途切れた先で満月が仄白い光を放ち、巨大な石柱が数本、円を描くようにそびえている。中心部。何者かが居る。こちらからは後ろ姿しか見えないが、上半身は裸体であり逞しい体躯から男だと確信した。月明かりに照らされた体は浅黒く異様に背が高い。不自然にブクブクと膨れた左手に聖書のような書物を抱えていた。男はゆっくりと振り返る。目が合う。山羊を思わせる顔が右頬を吊り上げ、邪悪な笑みを浮かべた。そして口元が動く。

ヨグ=ソトース

聞いてはいけない言葉。覗いてはいけない真実。ああ。宇宙の果てよりやってくるもの。ここではない宇宙が銀河で繋がってしまう。渦を巻いた空。雷は蛇のうねりを以って石柱を穿つ。あれを呼んではいけない。あれは…言葉を続けようとした刹那。再び異形が現れた。おお神よ。この邪悪を前に何ができるというのか。刻々と姿形を変え迫りくる極彩色に、私は為す術もなく飲み込まれた。

目にするだけで気が触れそうな虹色の奔流。ヌラヌラとした感触が身体を舐め回した。液状の物質が触れると手足の爪は剥がれ頭髪や体毛は抜け落ち、そうしてできた穴という穴に気化した虹色が吸い込まれていく。想像を絶する激痛が襲い、細胞は侵蝕され、頭の中では精神を削る金属音が鳴り止まない。終わりなき蹂躙。無限の空虚の中で、私の存在はゆっくりと造り変えられていった。

永遠とも思われる時間。どれほどの時間が経過したのか。何も感じず何の音も聞こえない。恐る恐る目を開けた。冒瀆的な異形は消え失せ、九龍城などどこにも存在していない。見回せばそこはまぎれもなく寝室であり、私はいつもと変わらぬ姿でベッドに横たわっていた。

これが夢の一部始終である。賢明な君ならばいかに荒唐無稽な話であっても、これが真実に連なるものだと理解してくれるだろう。

夢を見てから数日が経過した頃。私の肉体に奇妙な変化が訪れた。左手の肥大。急激な身長の伸び。鏡に映る顔はあの男のように山羊を彷彿とさせる兆しがある。そして。悪夢の元凶たる書物が机の上に置かれていた。それはネクロノミコンという。信じ難いことに判別不能だった文字が今は理解できるのだ。脳内に溢れる知識がそうさせたのだろう。外なる神。旧支配者。古のものども。混沌の存在である九龍城は、外宇宙と地球を繋ぐ門のひとつだった。いや。過去も現在も未来もひとつであるヨグ=ソトースにとって、地球上のいかなる時と場所もその胎内だったというのが正しいのか…。私は自分自身に流れる血によって選ばれた。そして全てを理解したのだ。

近い内に私は人ならざるものに変容するだろう。それは即ちこの世界の。この地球の終わりを呼び込むことに他ならない。友よ。一刻も早く私を殺して欲しい。まだ人の形を保っているうちに。勝手極まりない頼みであることは重々承知している。しかし私が頼れる人間は君をおいて他に居ないのだ。もう時間がない。君の決断と行動が間に合うことを切に願う。

永遠の隣人
ドミニク·ホウェイトリイ

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