第1章 荒ぶる神への祈り

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玉置山のゲニウス・ロキ

 夕暮れが間近に迫る頃、熊野の果無し山脈の奥深くに位置する玉置神社の入り口にようやくたどり着いた。

 里からつづら折れの狭い道を1時間あまり、途中には集落はおろか人家すら一軒もなく、濃密なスープのような森の中を潜り泳ぎするように進んできた。

 こんな山奥に熊野でも有数の名社があるのだろうかと途中から心配になった。出発の時間が遅かったため、どんどん日が傾き、逆に森の密度はますます濃さを増してくる中、すれ違う車も皆無で、日を改めて出直そうかと何度も考えた。「今から行っても、すぐに日が暮れてしまって、ろくに見学することもできない。それなら、時間はあるのだから、明日出直して、じっくり探索すればいいだろう」と理性は言う。だが、ぼくは何かに引き寄せられるように先へと進んでいった。

 仏教が日本に渡来する前から、日本には独特の山岳信仰の体系があった。山野を何日も跋渉し、滝に打たれ、緩やかな尾根筋では風のように全速力で駆け抜ける。そして岩屋に篭もり何日も瞑想する。今でいう修験道だが、大昔は修験という名はなく、こうした山野を舞台に修行する者たちを優婆塞(うばそく)といった。奈良時代に修験道の体系を築いた役行者も元々は役優婆塞と呼ばれ、さらに白山信仰を開いた泰澄や真言宗を開いた空海も優婆塞の系譜に連なっていた。

 玉置神社は、そうした優婆塞たちの修行の場であり、後に修験道最大の道場ともいえる大峯の奥駆けが整備されてからは、奥駆け終盤の重要なポイントとなった。また、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)の奥宮と言い伝えられ、紀伊半島全体を覆い尽くす深い森、「果無山脈」の最奥部にあって、かつては里人を寄せつけない聖域だった。

 拙著、『レイラインハンター』の冒頭でも書いたが、ぼくは、まずスポーツとしての登山にはまり込み、さらに、優婆塞や修験者(山伏)たちが、自然の中に身を置いて、何かを感じることで意識を高めていくというプロセスが自分の登山体験とも符合して、修験道に興味を持った。そこを出発点として、レイラインハンティングという聖地巡りのフィールドワークがライフワークともいえるものになった。修験道には今でも関わりを持っていて、いつかは大峯の奥駆を奈良の吉野から熊野本宮大社まで一気に果たしてみたいと思っている。その意味でも、玉置神社はどうしても訪ねてみたい場所だった。

 重なりあう山並みが延々と続く果無山脈を見渡す高台にある駐車場には、さすがに夕暮れ間近とあって、他に車は一台もなかった。駐車場の北側にある大きな鳥居を潜って参道に入ると、すぐに、杉の巨木が林立する急斜面を縫う径になる。冬の季節風の影響なのだろう、杉や栂の大木はどれも谷側に枝を伸ばし、それがあるところまで水平に伸びると、腕を曲げるように直角に上方へと折れ曲がっている。その有様は、天に向かって一斉に祈りを捧げる巨人の集団のように見える。

 熊野はその大部分を埋め尽くす森の密度が圧倒的だが、その森を構成する樹木のスケールも大きく、さらにそれぞれが意志を持ち、今にも動き出しそうな躍動感があり、その中にポツネンと置かれると、巨人の国に迷い込んだガリバーになったような気がしてくる。

 本宮、那智、速玉の熊野三山は、907年の宇多天皇を皮切りとして、院政期に白河上皇や後白河上皇が尊崇したことで朝廷の参詣も度々行われ、また、江戸期には多くの庶民が参詣した。天皇や上皇の行幸には多くの従者が今でいう「熊野古道」で列を成し、江戸時代には何もない山中の細道が巡礼の庶民でひしめいた。「蟻の熊野詣」という言葉は、その様子を現したもので、巨大な自然と対比したときの人間の卑小さがよく現れている。

 この地を修行の場に選んだ優婆塞や修験者たちは、天皇の行幸や庶民たちの参詣ルートとは異なるさらに山深く急峻な修行のルートを辿った。そのほとんどは、たった一人の孤独な道行きだった。

 大峯修験では、究極の修行として奥駆けのコースを辿った挙句、ゴールの那智大社で御神体である那智の滝から身を投げる「捨身修行」が行われていた。これこそ究極の自然との同化だろう。長くこの自然の中に身を置いて、無心になれば、ちっぽけな「体」という制約を乗り越えて本当の意味で自然と同化したいと思っても不思議ではない……そんなことをつらつらと考えながら歩いているうちに、深山の一角が開け、苔むした石垣の一部が目に飛び込んできた。

 社も鳥居ももの錆びた色合いで、周囲の植生の一部であるかのように風景に溶けこんでいる。

 さっきまで辛うじて樹冠に掛かっていた日差しが山の向こうに回りこんで見えなくなり、とりわけ大きなご神木が取り囲む境内は薄い山霧が漂いはじめたのも手伝って、余計に人工物ではなく自然の一部であるように見えてくる……あるいは自然の濃密さに酔わされた心が産み出した幻影のように。

 長い奥駆の抖そうの果てにここにたどり着いた修験者たちは、熊野でももっとも奥深いこの地に忽然と現れる玉置神社と出会って、きっと自然が創り出した奇蹟のように思っただろう。

 あたりはまったくの静寂に包まれていて、鳥の声も聞こえない。社殿へと向かうすり減った階段を登りはじめると、自分の足音と息遣いだけがその静寂を破る。

 玉置神社の本殿の背後にはご神体山である玉置山が迫っている。本殿と向かい合うと、その背後の玉置山から放射される独特の「個性」が感じられる。これこそが「ゲニウス・ロキ」、この場に特有の地霊の気配なのだと思う。昼と夜が切り替わる黄昏時は、モノの輪郭が曖昧になり、しかし完全に闇に溶け込むでもなく、モノの中に秘められた性格が滲み出してくる。鳥の声もなく、風も止み、感じられるのは、この土地、玉置山の息づかいのようなもの……。そうしたゲニウス・ロキは、センシティヴな人間が接すれば、霊のように見えるのかもしれず、抽象的な色彩や光の顕現、あるいは具体的な託宣のような言葉として感じられるのかもしれない。ぼくには、そうした翻訳された具現化のような現象は起こらないが、たしかに、気配としてゲニウス・ロキが感じられる。

 玉置山のゲニウス・ロキは、とても厳かであり、得体のしれない荒々しさを秘めている。熊野で暮らしてきた人たちは、時々牙をむくこの土地の自然を語る時、誇りを持ったような言い方で「熊野の荒ぶる神々」と呼ぶ。しばしば水害で大きな被害を出す熊野の自然。古くは、今は大斎原と呼ばれる熊野川の中州にあった熊野本宮大社の社殿をことごとく流し去り、山津波で十津川の村を半分消滅させた。そんな油断できない自然を地元の人たちは誇れるもののように語る。そんな、「熊野の荒ぶる神々」の元締めとも言えるのが、玉置山のゲニウス・ロキなのかもしれない。

 すでに扉が閉じられてしまった本殿の前で、しばらく目を閉じながら玉置神社を包み込む独特の霊気に浸っていた。

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共鳴する祝詞

 玉置山から風が吹き下ろしはじめ、夏の軽装では肌寒くなってきた。そろそろお参りを済ませて戻ろうと、本殿に向かって二礼し、柏手を打とうとしたその瞬間、周囲の森を震わせる鋭い柏手の音が鳴り響いた。やや間を置いて二拍。もちろん、ぼくが打ったわけではなく、本殿前にも他に人はいない。玉置山から派生した尾根に左右を挟まれているため、音が反響して山そのものが発した音のようにも感じられる。だが、そんなはずはない。

 そして、柏手の音を追うようにして、今度は図太い祝詞の声が続いた。その声も、とても人が発しているとは思えない大音声で、玉置神社の空間全体に渦巻いている。はじめに柏手の音を聴いていたから、それに続く祝詞だとわかったが、もし、いきなりこの祝詞だったら、オオカミの遠吠えと勘違いしたかもしれない。その声は、すり鉢状の玉置神社の神域で渦を巻いた後、幾重にも波が重なるようにして、唯一開けた南面から深い森へと染み渡っていく。

 耳を澄ますと、祝詞は本殿の背後で唱えられているようだった。聴きようによっては、ご神体山である玉置山のゲニウス・ロキの唸りのようでもある。

 自分の祈りが途中であったことも忘れて、祝詞の発信元である社殿の裏に回ってみる。だが、そこには玉置山へと這い登る原生林の斜面があるだけで、誰もいない。音が渦巻いているせいで、ここだと思った場所に立つと、今度はぜんぜん違う方向から聴こえてくる。

 今度は、西のほうで聴こえた気がした。

 境内をぐるっと回りこんで、西側へ行くと、そこには幹周りが優に5mを越える巨木が立ち並んでいた。そのうちの一つ、いちばん太く、樹高もある杉の大木の根本に白い人影があった。森の「主」とも言えそうな巨木の下では、まさに一匹の蟻くらいしか存在感がない。しかし、彼が唱える祝詞は、怖ろしいほどに力強く、圧倒的な密度を持つ熊野深奥部の自然に負けていなかった。

 巨木の元に跪き、その樹と向き合い、畏まって唱えられる祝詞は、ただ神職の口から森へと広がっていくのではなく、巨木に振動として伝わり、その樹を共鳴させ、大きな振動となって深い森の隅々へと広がっていくようだ。ご神木である巨木が振動を増幅するアンプであり、さらにアンテナの機能を持っているのだ。ご神木から発せられた振動は、森に広がってゆきながら、さらに森全体を共鳴させる。

 神職が唱える祝詞は、祝詞の中でももっともポピュラーな『大祓詞』だった。大祓詞は、人間が生きていることによって逃れ難く心身に取り付いてしまう穢れを引き剥がし、ミクロな自然からマクロな自然へと拡散していくことによって無に帰するというプロセスを具体的に唄い上げたものだ。その文言をあらためて噛み締めながら聴いていると、祝詞というものは、本来は社の中で唱えられるものではなく、原初の形は、こうして大きな自然に向かって力強く放たれたものだったとわかる。そして、祝詞の振動の宇宙の中で、その意味を言葉として理解するのではなく、自らもその振動に参加し、自分の心身に蓄積された穢れを篩い出すと同時に、すべての穢れを拡散する振動運動を増幅する役目を果たすべきなのだと。

 やや長いが、大祓詞の文言をそのまま引用してみよう。
「高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて 我皇御孫命は 豊葦原瑞穂国を 安国と平けく知食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし国内に 荒振神等をば 神問はしに問はし給ひ 神掃へに掃へ給ひて 言問ひし磐根木根 立草の片葉をも事止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別に千別て 天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の国中と 大倭日高見の国を安国と定め奉りて 下津磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭日の御蔭と隠り坐して 安国と平けく知食さむ 国内に成り出む天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天津罪 国津罪 許許太久の罪出む 此く出ば天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ此く宣らば 天津神は天の磐戸を押披きて 天の八重雲を伊頭の千別に千別て聞食さむ 国津神は高山の末低山の末に登り坐て 高山の伊褒理低山の伊褒理を掻き別けて聞食さむ 此く聞食してば罪と言ふ罪は有らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き掃ふ事の如く 大津辺に居る大船を舳解き放ち艪解き放ちて大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を焼鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す速開都比売と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 息吹戸に坐す息吹戸主と言ふ神 根国底国に息吹放ちてむ 此く息吹放ちてば 根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神 持ち佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す」(大正3年に内務省が選定した中臣祓)

 これを抄訳すれば以下のようになる。
「天上におわします皇祖神の命により、八百万の神たちが招集され、合議がなされた。そこで天孫である瓊々岐命(ににぎのみこと)が、豊葦原の水穂の国=日本国を安穏で平和な国として統治されるよう委託された。
 その国土には、まだ意向に従わない神々がいたので、天孫の降臨に先立ち、服従を問い糺した。それでも帰順しない神々は討伐され、いっときは岩石や草木のひと葉までもが喧しくなったが、ついには、ふっつりと静かになり、国土の騒乱はおさまって平和がおとずれた。そこで天孫は、天の御座所を出発し、幾重にも重なる雲を威風堂々と押し分けて、地上に降臨された。
 まず、国土の中央となる、陽が高く照り輝く美しい大和の地に都を定められた。地中深く土台石を置き、その上に太柱を立て、屋根の上の千木を大空に聳え立たせ、天孫=天皇の、荘厳な宮殿が造られた。その天日の陰の宮殿に座され、国を安泰に統治されることになった。
 年代が経つにしたがい、国民が増えていけば、そこには知らないうちに犯した罪や故意に犯した罪悪、穢れが現れる。現れた罪禍や穢れを祓うために、天上の儀式に倣って作った台に、多くの祓えものを置き、菅麻で作った祓串を振って、天の神が授けてくれた祓いの祝詞唱えなさい。
 この祝詞を唱えたなら、天の神は天上の宮殿門を開き、空にたなびく雲を押し分けて、これを聞き届けてくれる。また国土を拓いた国つ神は山々の頂に登り、靄や煙を断ち払って聞いてくださる。神々が祝詞を聞き届けてくれれば罪という罪は一切きれいに無くなってしまう。
 それは幾重にも重なる雲を風が吹き散らすように、朝夕たちこめる霧や靄を風が吹き掃うように。それは、港に泊まる大船の舳先と艫の綱を解いて大海原に押しやるように。彼方まで繁る木を、鍛えた鎌で残すところなく薙ぎ掃うように。そこには一切の罪の痕跡は残らず祓い清められる。
 このように祓い清められた総ての罪や穢れは、山々の頂から谷間の急流に落ち、そこにおわす瀬織津姫という神様が、大海原に運ぶ。さらに、大海の遠い沖合では、潮流の渦巻く中におわす速開津姫という神様が、大きな口でこれを全て飲み込み、海底深くへと沈めてしまう。海底からさらに、地下の国の入り口、氣吹戸という所におわす氣吹戸主という神様が、地下の国に吹き吐いてしまう。さらに地下の国におわす速佐須良姫という神様が、何処とも知れぬ広大な空間に拡散させて、罪や穢れ跡形もなく消滅させてしまう。
 このように、罪という罪は一切無くなるよう祓い給い清め給うことを 天つ神国つ神八百万の神にお願いします」

 前段は国の成り立ちについて説明し、後段で罪や穢れがどのように祓われていくのかを具体的に描く。まず我々は、神社に詣で、心身に溜まった罪や穢れを身近な神に託す。すると、これを受け取った神は川に流す。そして、海にたどり着き、さらに地下の根の国底の国に運ばれ、ついには広大な宇宙空間に拡散されることによって雲散霧消する。川や海やその底には、それぞれの場所固有の神がいて、受け取った罪や穢れをさらに広い世界を統べる神に受け渡していく。簡単に言えば、ちっぽけな人間が犯した罪や生きる上でどうしようもなく溜まってしまった穢れなど、この広大な宇宙から見れば無いに等しいものだ。だから、身近な神々を意識し、罪や穢れを祓う祈りを捧げることを忘れなければ、人は平穏に生きていけるということを説いているといえる。

 余談だが、3.11によって恐ろしいほど大量の放射性物質が大気や海洋にばらまかれてしまったとき、ぼくは真っ先にこの大祓詞の文言を思い浮かべた。これほどの汚染は、もはや祝詞に喩えられる神々の手にも及ばないものになってしまったのではないかと……。

 しかし、すでに遅いと諦めるのではなく、古代からこうして伝わってきた祝詞の文言をしっかりと受け止め、この大祓詞が人々に喚起する自然観を意識して、自然を穢さず、人が自然と穏やかに共生していける今までとは違うオルタナティヴな道を必死に探すのが、今のぼくたちに与えられた義務だと思う。

 玉置神社に戻ろう。

 神職が唱える祝詞は、熊野の深い森に染み渡り、さらに大地と空気を振動させて広がってゆく。それは、ついには海に達して、海を震わせ、大洋の彼方まで伝わっていく。クジラの鳴き声は海を震わせ何百キロも何千キロも伝わると聞いたことがあるが、もしかすると彼らは太古の昔から、人の祈りを陸から遠く離れた大海原で聴いていたのではないだろうか。祝詞はさらに地球全体の振動となって、ついには宇宙へと拡散していく。

 不思議な祝詞の迫力に打たれ、夢を見るように祝詞の世界観をイメージして酔っているうちに、それは突然止んだ。そして白装束の神職はゆっくりと立ち上がると、急斜面を滑るように横切りもうひとつの注連縄が巻かれたご神木の前で額づいた。

 熊野の森を切り裂くような鋭い拍手、そしてまた同じ大祓詞が唱えられる。

 そうして、彼は三本のご神木を巡り、社殿の中に消えていった。

 気がつけば、熊野の森の緑より濃い夜の闇があたりを覆っていた。駐車場へと戻る道すがら、闇の中を手探りするように進みながらも、ぼくはさっきの祝詞に上気させられ、闇もまったく気にならなかった。

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●玉置山
 玉置神社のご神体山である玉置山は、太古の海底火山が噴火と隆起を繰り返して出来上がった。頂上周辺は、その名残をとどめる枕状溶岩堆積地で、これは玄武岩質の溶岩が水中に噴出して急速に冷却されて形成されたもので、この露頭が磐座とされている。
 磐座を成す岩塊は巨大で、紀伊半島の内陸奥に位置する玉置山の造山運動が紀伊半島そのものの形成にも関わっていることを考えれば、ここが「聖地」とされるだけの大地のポテンシャルを持っていることが頷ける。

●玉置神社
 標高1076mの玉置山の9合目に位置する。社伝では、第10代崇神天皇の時代に王城火防鎮護と悪魔退散のために創建されたと伝えられている。神仏習合時代は、別当寺の高牟婁院をはじめ7坊15ヶ寺を擁していた。
 祭神は、国常立尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大御神、神日本磐余彦尊。
 玉置神社を含む「大峯奥駈道」は「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
・交通
 JR新宮駅・近鉄大和八木駅・JR五条駅よりバス、十津川温泉バス停下車、玉置神社駐車場までタクシーで約30分。駐車場より徒歩約20分で玉置神社。さらに約30分で玉置山。

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