第2章 巫女の祈り

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観音菩薩の導き

 はじめて談山神社を訪れたのは、もう30年も前のことになる。大学の友人二人と関西を気の向くままにバックパックを担いで巡り歩いた。

 途中、奈良が気に入って、山の辺の道の奈良市側の起点にあったユースホステルに1週間あまり連泊して、周辺を徘徊した。大学生とはいえ、奈良の歴史や仏教についての教養など皆無で、ただただ、山の辺から飛鳥あたりの雰囲気が気に入り、当てもなくふらふらしていたのだが……この時に、『古寺巡礼』を著した和辻哲郎の爪の垢ほども仏教芸術の素養があれば、もっともっと深く奈良という土地を堪能できただろうにと残念に思う。でも、まあ、当時は山登りとオートバイツーリングに明け暮れ、素養など身につける時間などなかったのだから、仕方ないわけだが。

 そのとき、ちょうど同じようにこのユースホステルに連泊して、奈良の仏像巡りをしている女の子がいた。彼女は帝塚山女子大の美術史専攻の学生で、仏像に関してとても詳しい人だった。その子に誘われて、腑抜けな表情の男三人が寺巡りをすることになった。

 つい、その数年前に奈良と京都は修学旅行で巡っていたが、記憶に残っていたのは、寺や仏像になどまるで関心のない修学旅行生の群れを相手に話術を鍛えた薬師寺の住職の軽妙なトークくらいで、あとはどの寺で何を観たのやら、さっぱり覚えていなかった。だから、可愛らしい専属ガイドに案内される奈良の古寺と仏像は初対面の感動を持って向かい合うことができた。

 われわれ三人がいることで、研究を邪魔しているのではないかと、
「こちらには構わず、じっくり見学してください」
 と言っても、彼女は、
「いえ、こうして人に説明していると、自分でもすごく勉強になりますから、案内させてください」
 と、ずっと傍らで解説を続けてくれた。

 家では和服を着て過ごすことが多いという彼女は、面立ちがどことなく山口百恵に似ていて、言葉を慎重に選んで穏やかに話すその口調もやはり山口百恵を連想させた。当時、平岡正明の『山口百恵は菩薩である』という著作がヒットしていた。ぼくは読んだことはなかったが、観音菩薩の横に彼女が並んでヒーリングのような話し方で解説してくれると、その菩薩の姿と彼女とが重なって見えた。

 今でこそ、仏像巡りの旅をする若い女性も多くなったが、日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」へ向けて加速し始めた80年頃には、神社仏閣や古い文化に目を向ける若い人間などほとんどいなかった。あんな世相の中で、どうして仏教美術に興味を持ったのか尋ねてみれば良かったと、今にして思う。……もしかすると、彼女は本当に観音菩薩の化身だったのかもしれない。

 奈良市内の大寺を何ヶ所か巡った後、中心街から離れた寺を目指して歩いていると、俄雨に見舞われた。慌てて、傍らにあった他と比べると簡素な趣の寺に飛び込み、雨宿りすることにした。

 その寺は、新薬師寺だった。今は、国宝としてあまりにも有名になり展覧会では長蛇の行列ができる十二神将像が、薄暗い堂内に無造作に並んでいた。当時は拝観料を取るでもなく、本堂も開け広げのままで、手を触れることができる近さで拝観することができた。

 明るい照明の展示会で見ても、今にも動き出しそうなリアルな造形の十二神将は、薄暗がりの中で肌がピリピリするような憤怒の唸りを発していた。怖ろしい反面、いったい人間のどんな技が憤怒という一つの感情でこれだけ異なる位相を表出し、リアルに作り上げることができたのか不思議で、見入ってしまう。

 思えば、この新薬師寺の十二神将との偶然の遭遇が、今でも続く仏像への興味を最初に心に焼き付けたともいえる。ずっと後のことだが、円空仏に無性に惹かれ、各地の円空仏を訪ね歩くようになった。そして、あるとき、円空は土地から立ち上る個性=ゲニウス・ロキを誰にでもわかりやすいように仏や護法神として刻んでいたことに気づいた。

 円空は、何か具体的なイメージに基づいて像を彫るのではなく、自分を無にしてその場に立ち上る雰囲気(地霊=ゲニウス・ロキ)と同化し、そのバイブレーションに身を任せてノミを振るった。大胆なノミ使いで簡素な円空仏と精緻を極めた十二神将像では、見た目はまったく異なるが、どちらも、ゲニウス・ロキや何か超自然的なものの気配を濃厚に感じさせる点では、同じ種類のものだ。そして、そのようなものに感応した仏師は、無心に仏を造形したに違いない。そんなふうに、モノに込められた「思い」や「何か」について考えを巡らせる楽しさに気づかされたのも、この新薬師寺での十二神将との出会いが発端だった。

「十二支ってありますよね。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支。十二神将というのは、それぞれが十二支に対応した方角を守る守護神なんです。奈良とか平安時代って、じつはとても天災が多くて、疫病や飢饉もあって、たいへんな時代だったんです。そんな怖ろしいものと向かい合うためには、こんなにも怖くて厳しいお顔をされていないといけなかったんでしょうね…」

 そもそも、そう呟く菩薩のようなガイドがいなければ、仏像に思いを寄せることはなかっただろう。

 さて、肝心の談山神社だが、ここへも彼女と男三人の四人組で行くことになった。

 当時はまだ国鉄だった桜井駅から、一日に数本しかないバスに揺られ、40分あまり。本当にこんな山奥に目指す神社があるのかと疑問に思いはじめたとき、雨模様で霧に霞む森の中に、鮮やかな朱色の鳥居が現れた。バスを降りて見上げると、そこが山の中ではなく、海の底の竜宮の入り口のように思える。鳥居を潜って石段を登りつめると、そこには優美な十三重塔と朱塗りの社殿があった。周囲の山に阻まれて、靄がたなびく中にあって、ますます竜宮城のイメージが強くなる。と同時にうっすらと既視感のようなものを覚えた。

「内田さんは、茨城県出身ですよね」
 菩薩の彼女が言う。

「そうですよ」

「だったら、鹿島神宮は知ってますか?」

「鹿島神宮は、よく行きましたよ」
と、答えながら、この場所が鹿島神宮と雰囲気が似ていることに気づいた。だから、既視感を覚えたのだ。

 鹿島神宮の楼門は鮮やかな朱塗りで、子供の頃から鹿島神宮を訪ねてその楼門を潜る度に、竜宮城に入るような気がしていた。この談山神社の社殿の形や色使いは、鹿島神宮の楼門にそっくりだった。

 彼女は、談山神社は鹿島神宮とも縁があることを教えてくれた。

 談山神社には、藤原鎌足が祭神として祀られている。大化の改新(乙巳の変)を前にして、多武峰のこの場所で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が革命について談合を重ねた。その故事に因んで、「談い山」や「談所ヶ森」と呼ばれるようになった。鎌足没後、僧となっていた長男の定慧が父鎌足の菩提を祀るため、ここに十三重塔を建て、さらに大宝元年(701)に神殿が建てられて、今に続く談山神社となった。

 後に藤原氏と名乗る中臣氏は現在の茨城県鹿嶋付近の豪族であり、朝廷に重用されて大和へ移るときに、氏神様である鹿島神宮を勧請して春日大社を建立したとされる。鹿島神宮では鹿は神の使いとされ、境内には鹿園が設けられている。奈良公園の名物なっている鹿も、元は鹿島神宮の鹿であり、中臣氏が奈良へ登るときに連れてこられたのだという。そういえば、春日大社も朱塗りの社殿が龍宮城を思わせ、馴染み深い気分にさせるところだった。

 自分の生まれ故郷に近く、しばしば参詣した鹿島神宮が奈良と深い結び付きがあることを知り、奈良という土地が俄然身近に感じられた。

 あれから30年が経った。

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巫女舞

 久しぶりに訪れた談山神社は、十三重塔や社殿の佇まいは30年前とほとんど変わっていなかった。ただ、参拝者の数だけは違っていた。背後に急な階段を頂いた特徴的な鳥居の前から、階段、そして境内まで人で溢れかえっていた。30年前のあの時は、ぼくたち四人だけが靄のたちこめた境内にいて、静かにこの空間の雰囲気を味わっていた。雑踏の中では、あの時の既視感や懐かしさは蘇ってこない。

 雑踏を避けるように境内の隅を選んで歩きながら、ふと見ると、社殿の奥に扉がって、開いているのが見えた。引き寄せられるようにそちらに向かうと、扉の向こうは拝殿になっていた。談山神社のシンボルである十三重塔に気をとられている観光客は、この奥まった拝所には誰も気がつかない。

 扉が開け放たれているということは、自由に参拝していいのだろうと勝手に解釈して、中に入る。

 談山神社の拝殿内部は不思議な形をしていた。寺のお堂に上がるように拝殿内に入ると、拝殿を含めた社殿が四角く配置され、その中間部分が抜けている。寺なら、お堂に入れば、目の前に本尊が鎮座しているが、ここではすっぽり空いた中庭のような空間を隔てて神殿がある。参拝者は畳敷きの拝殿で正座し、神殿に向かって拝む形になる。中庭が不思議なほど広く、そこに太陽の光が降り注ぎ、取り巻く社殿を明るく輝かせている。石畳の中庭と社殿が高い石造りの基礎に乗っているため、見事な防音効果を発揮して、表の雑踏の音はまったく入ってこない。時空にできた穴のようなスポットになっている。

 ふと、ジェームズ・タレルの空間作品のイメージが沸き上がってくる。アリゾナ州のペインテッド・デザート(高地砂漠)の一角にある「ローデンクレーター」という壮大な作品。一つの火山の火口クレーターの底に丸く空を切り取っただけの空間を作り、そこから青い空だけが見える。日本では、金沢21世紀美術館に同じように四方がコンクリートの部屋で、天井の真ん中が小さく四角く切り取られた「タレルの部屋」がある。タレルのそのシンプルな空間は、大きな広がりを持つ空のほんの一部分を切り取ったことによって、逆に無限の広さのイメージを喚起する。周囲はのっぺりとしたモノトーンの壁で、音もなく、唯一開いた窓に意識が集中させられることにより、今まで自覚していなかった感覚が呼び覚まされる。

 低いハウリングのような音がしたり、肌がピリピリするように思えたり、あるいは空に浮かぶ雲が生き物のように見え、それとコンタクトできるように感じたりする。

 周囲を社殿で囲まれたこの拝殿の中庭も、上方だけが開かれている。のっぺりとしたコンクリートで作られたミニマルなタレルの作品とは違って社殿の装飾は賑やかだが、視線は空と白い石造りの中庭に吸い寄せられ、感覚が鋭敏になる。真空の中を意識だけがフワフワと舞っているような状態とでもいえばいいだろうか。体は正座したまま固まり、白い中庭に意識が吸引されて漂い出していくような錯覚がしてくる。そのまま何時間でも、この小宇宙の中で意識を遊ばせていられそうだ。

 そんな夢見心地でいると、一瞬、中庭の空気が動き、それに続いて軽やかな鈴の音がした。それで意識が体に戻った。

 神殿に向きあったぼくの左手、舞台の袖のように陰になったところから、中庭に、神楽鈴を鳴らしながら巫女が登場した。ちょうど南天した太陽が巫女の纏った光絹を鮮やかにきらめかせる。巫女姿といえば白い羽二重に緋袴が普通だが、中庭に幻のように現れたこの巫女が纏っているのは、綺羅びやかな銀糸の刺繍が散りばめられ、袖にエメラルドグリーンの縁取りが入った振袖だ。長い髪をやはりエメラルドグリーンの細帯でまとめている。神楽鈴を鳴らしながら緩やかに進んでくるその姿は、地を歩いているのではなく、微かに宙に浮いて滑っているようだ。

 拝殿は、たまたま紛れ込んだぼく以外に人はいないから、誰かがお祓いを頼んだわけではなく、ルーティンの儀式なのだろう。

 巫女が正対する神殿の扉は閉じられたままで、その扉の前の階段にちんまりした鳥居が据えられている。神殿の中に祀られているのが藤原鎌足という人格神であることを思うと、鳥居が表札のように見えて愛嬌を感じさせる。

 巫女は、その鳥居に向かって一礼すると、「シャン」とひときわ大きく鈴を鳴らした。それを合図に、中庭に祝詞が流れ始めた。それは、密やかで柔らかい、いかにも女性的な朗唱だが、社殿に取り囲まれた空間の中で、渦を巻くように漂い、鈴の音と、眩い太陽の光と渾然一体となって、この空間の現実感を失わせていく。

 祝詞と巫女の舞と日差しが次元を越えて溶け合う空間の中で、傍観者であった自分もいつの間にかそのエレメントの中に溶けこんで漂っているように感じられる。巫女が舞う渦の中心に向かって、渾然一体となった全てが集中してゆき、ある瞬間、唯一開かれた上方へ向かって放射されいく。

 玉置神社では、人間の存在など砂粒に感じられるような、絶望的ともいえる自然の拡がりと深さの中で、唯一祝詞だけが鯨の海中での叫びのようにどこまでも浸透してゆき、そこに人という存在の可能性を垣間見せた。同時に、それは猛々しく男性的であり、大自然の迫力に立ち向かう人間の気迫に満ちていた。この談山神社では、あくまでも人工的な狭い空間の中で、フラジャイルといってもいい祝詞と音が奏でられる。しかし、それはけして弱々しいものではなく、一筋の絹糸のように、しっかりと張りを持ったまままっすぐ引き伸ばされていく。

 玉置神社の祈りは、『大祓詞』を体現するかのように、広大な自然=宇宙へ向けてあまねく広がっていくものだった。この談山神社の巫女の祈りは、とことんミニマルな空間の中で、中心の一点へ向けて紡がれ、それが南天する太陽に向かって、細い筋となって立ち上っていく。

 かつて、祈りの主役は女性だった。

 古代ギリシアでは、パルナッソス山の南斜面に位置するデルフォイのアポロン神殿があり、その中に安置された聖なる石「オムパロス」に向かって「ピュティア」と呼ばれる巫女が祈りを捧げ、神託を得た。プルタルコスは、「プネウマ」と呼ばれる甘いガスがオムパロスの脇から吹き出し、それを嗅いだピュティアがトランス状態になって、神の声を聞いたのだと伝えている。

 デルフォイにアポロ神殿ができる前はただの荒野で、後にオムパロスと呼ばれるようになる石とその隣に大地の割れ目があるだけだった。ある日、ここに山羊を連れた山羊飼いが通りかかった。山羊たちは静かに周辺の草を食んでいたが、大地の割れ目に近づいた一頭が、突然狂乱したように鳴き暴れ始めた。山羊飼いは、その山羊を取り押さえたが、割れ目から立ち上る甘い空気を吸ったとたん山羊と同じようにトランス状態となり、幻覚を見た。その話が麓の村に伝わって評判になったが、プネウマを吸っても脈絡のない幻覚を見るか、場合によっては発狂して割れ目に身を投げる者も出てきた。唯一、地母神に仕える巫女のみが、具体的な神託を得ることができた。そして、ここは聖地とされ、アポロン神殿が建てられ、神殿を守り、神託を伝える者としてピュティアが置かれることとなった。

 日本では、邪馬台国の卑弥呼にはじまり、伊勢神宮で天照大御神を奉斎する役目を持った斎宮、さらには沖縄の神官聞得大君(きこえおおきみ)など、神事に携わる女性の伝統は長い。そして、デルフォイと同じように、神託を得るのは巫女の役目として、名のある神社には必ず神職としての巫女が置かれていた。

 巫女は常に大地の力に繋がっている。「地母神」が巫女のインスピレーションの源泉であり、地母神=ゲニウス・ロキが眠る聖地で受けたインスピレーションを巫女は「神託」として万人に理解できる言葉に翻訳した。

 「聖地」は、デルフォイのアポロン神殿のように、もともと動物や人間に対して不思議な力を発揮する場所があって、そこに後に神殿や神社仏閣などの祈りの施設が置かれるケースが多い。談山神社創建の由来は中大兄皇子と中臣鎌足の謀議の場所ということになっているが、そもそもこの場所を密談の場所に選んだのは、ここが特別な「聖地」だったからだろう。すでに当時、ここでは巫女による神託が行われていたのかもしれない。

 二人は、この場所でクーデターの謀議を行いながら、蘇我氏という強大な権力に若い自分たちが立ち向かうことに不安を抱いていた。巫女の神託は不安を払拭し、最終的に彼らにクーデターの決意を促した……談山神社が創建されたのは、神託に対する感謝からではなかったか。

 眩い光の中で巫女が舞う姿を見つめているうちに、古代のそんな光景が現出してくるようだった。巫女の祈りは、祭神である藤原鎌足に捧げられるのではない。この地に眠る地母神=ゲニウス・ロキと天とを繋ぐ媒介として、彼女たちは祈りを捧げ、世界全体へ宇宙へと祈りのバイブレーションを伝えているのだ。 30年前に偶然訪ねることになったこの場所で、また、偶然、珍しい巫女舞と出くわすことになったのは、もしかしたら、あの30年前の女の子=菩薩の導きであったのかもしれない。

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■参考■

●談山神社
 祭神は藤原鎌足。大宝元年(701)に創建され、現存の社殿は嘉永3年(1850)に建て替えられたもの。日光東照宮造営の際に本殿の造りや装飾などが手本とされたことでも有名。十三重塔は藤原鎌足の長男定慧と次男不比等に よって西暦678年に建立された。 現存の塔は、享禄5年 (1532)の再建で木造十三重塔としては世界唯一のもの。
唐の清涼山宝池院の塔 を模して建てられたと伝えられている。
・交通
 Jr桜井線桜井駅下車。バス、タクシー。

●鹿島神宮と春日大社、藤原鎌足の出自
 本文では、中臣鎌足(藤原鎌足)が鹿島神宮の神官の血筋であったという説を採用したが、これを否定する説も関裕二などから提出されている。『大鏡』や『多武峰縁起』には、藤原鎌足が今の茨城県鹿嶋市の出身で、都に上った後に氏神の鹿島神宮を勧請して春日大社を創建したと記してる。だが、春日大社も鹿島神宮も両社の結びつきが緊密であることを、せいぜい神の遣いである鹿の交流程度しかうたっておらず、それぞれの地元でも鹿島神宮から春日大社が分社したという逸話はあまり伝えられていない。
 関裕二は、『藤原氏の正体』(新潮文庫)の中で、中臣鎌足(藤原鎌足)が百済から人質として来日していた百済王の豊璋ではないかと推定している。日本にいる間に、中大兄皇子(天智天皇)と親しくなり、彼の腹心として乙巳の変を成功させた。その後、日本の朝廷にいる間に国が滅び、天智天皇の援護の元、百済再興のため唐・新羅連合軍と戦ったが、白村江の戦いで破れて敗走した。その後の足取りがつかめていないが、関の説では、豊璋は密かに日本に戻り、再び天智天皇の腹心となって、藤原鎌足を名乗ったとする。そして、藤原氏の権力が盤石となった時点で、自らの正統性を築くために正史『日本書紀』の中に藤原氏の血統を織り込んだのではないかと。
 『古事記』には藤原氏の出自について一切記されていない点や、豊璋と中大兄皇子の緊密な関係、さらに鹿島神宮と春日大社の間のドライな関係などを考え合わせると、関の「藤原鎌足=豊璋」説が現実味を帯びてくる。

●巫女舞
 古代の日本では、女性シャーマンに神が憑依し、重要な託宣をもたらすとされた。また、祭祀を取り仕切るのも女性の役目とされることが多く、卑弥呼のように祭祀王を兼ねた女性支配者や崇神天皇の時代に天照大御神を奉斎した豊鍬入姫命、さらにそれを引き継いだ倭姫命、八幡神を奉斎し神託を伝えた巫女などがあげられる。海外でも、古代ギリシアのデルフォイ・アボロン神殿に仕える「ピュティア」や古代地中海世界の巫女「シビュラ」などが有名だった。
 巫女が神懸かりする際の舞いが次第に様式化してゆき、今に残る巫女舞となった。古くは、多くの神社で巫女舞が奉納され、また、里神楽として村の祭りなどでも舞われることが多かった。
 ところが、明治政府が成立すると、その国家神道政策によって、神託は淫祀邪教の烙印を押され、明治6年の「巫女禁断令」によって、巫女による神託は禁止された。同時に、その様式を伝える巫女舞も、ほとんどが廃れてしまった。戦後、国家神道政策は廃止されて信教の自由が確立され、古来の巫女舞も一部に復活している。
 熱田神宮では、「熱田神宮神楽保存会」によって巫女舞が復元され、奉納舞などが行われている。春日大社の巫女舞は『拾遺集』でも謳われた優雅なもので、これも「八乙女舞」として復活されている。他に、住吉大社、日光二荒山神社、松江の美保神社、金比羅神社、弥彦神社などで古来の巫女舞が復活されている。
 


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