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探究というプロセス

一昨日配信した聖地学講座では、タタラについて少し触れたけれど、冶金や鉱山に関わるシンボルとして鶏がよく出てくる。

それは、水銀鉱脈を指し示す符牒にもなっているのだけれど、たしか、海外でも同じ例があったよなと、いろいろ、資料をひっくり返していた。

そしたら、エリアーデが紹介しているアフリカのある部族の冶金儀礼が、まさに鶏を使うものだった。

「聖地学」なんて、自分がはじめたことだから、当然wikiなどでは調べようもないのだけれど、灰色の脳細胞に刻まれた微かな記憶を頼りに、資料にあたるという作業は、安直にwebで調べることなどとはまったく違う知性を刺激するプラクティスだなと思う。

結果にすぐに飛びつくということに慣らされてしまうと、物事を深く考えること、複数の情報にあたって裏を取るということをしなくなってしまう。それどころか、そういう探求的なマインドセットそのものを持てなくなってしまう。
それは、とても不幸なことだと思う。

探究することは、単一の結果だけじゃなくて、様々な情報を渉猟することになるから、そこで得た情報が、その時には直接役立たなくても、必ず、別の機会にインスピレーションを与えてくれる。

そうして、「世界」は広がっていくものだと思う。

エリアーデを紐解くと、必ず、「ホーニヒベルガー…」を再読したくなるんだよなあ。短編だけど、読み返す度に、発見がある。それだけ、エリアーデが博識で、思考が深く、様々にメタファーを駆使しているということ。

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